參玖餘蓄之碑
今日之堪輿上非富國強兵則為國也難矣而富國強兵之道亦多岐如我帝國固以農為本焉為本村村櫛之面勢斗出于湖水禾田太稀也村之某々等憂之有年因胥議相地勢埋湖面新墾田從此東南蒸氣沔岸至西北字新田四區域六町貳段貳畝八歩起工於明治三十五年二月十日訖於三十七年十二月十日竣矣既稼種未幾年収穫不讓古田可謂不尠國益而事有要經南北庄内兩村之承認而會兩村間生異議久而不解神職袴田巽氏居中調停始協解澌釋隨本村亦能得収汚邪滿車穰穰滿家之實益於此乎氏之功有不可泯滅者因某々等建碑傳之於永遠併示富國道以不可以忽乎農事于後來云爾
明治三十九年十二月一日村櫛尋常高等小學校訓導兼校長堀野金藏撰文七十三翁華山堀野義豊篆額併書
佐藤北洲刻
【書き下し文】
参玖余蓄の碑*
今日の堪輿*の上、富国強兵に非らざれば、則ち国を為すや難し。而して富国強兵の道も亦た多岐にして、我が帝国の如きは固より農を以て本と為す。本村村櫛の面勢為るや、斗のごとく湖水に出で、禾田太だ稀なり。村の某某等之を憂うこと年有り。因りて胥い議して地勢を相(み)、湖面を埋め、新たに田を墾す。此より東南の蒸気岸に沔*(み)ち、西北に至る。字新田四区域六町貳段貳畝八歩、明治三十五年二月十日に起工し、三十七年十二月十日に訖りて竣わる。既に種を稼えて未だ幾年ならずして収穫古田に譲らず、尠からざる国益と謂うべきなり。しかして事、南北庄内両村の承認を経るを要する有り、会ま両村の間に異議を生ずること久しくして解せず。神職袴田巽氏中に居りて調停始めて協解澌釈*す。随って本村も亦た能く汚邪車に満ち穰穰として家に満つるの実益を得たるなり*。此に於いてか氏の功泯滅すべからざるもの有り。因りて某某等碑を建て以て之を永遠に伝え、併せて富国の道の以て農事を忽せにすべからざるを後来に示さんとすとしか云う。
明治三十九年十二月一日村櫛尋常高等小学校訓導兼校長堀野金蔵文を撰し、七十三翁華山堀野義豊篆額し併せて書す、佐藤北洲刻
*参玖余蓄 「参玖余蓄」とは、「三九年の余蓄」すなわち、明治39年に生産物に余剰が生まれたことを述べるか。
*堪輿 天地を指す。『文選』(巻7)の「揚雄「甘泉賦」」に李善が注して「張晏曰「堪輿、天地總名也」。(中略)許慎曰「堪、天道也。輿、地道也」という。
*沔 「河」のつくりの部分の「口」を右に広げて突き抜けたような字であり、辞書類に見いだし得ない。字形と文脈から「沔」の崩した字形と判断した。
*澌釈 「澌釋」は溶けること。
*『史記』(巻126「滑稽列伝」)に「甌窶滿篝、汚邪滿車、五榖蕃熟、穰穰滿家」(甌窶 篝に滿ち、汚邪 車に滿ち、五榖蕃熟し、穰穰として家に滿てよ)とある。「汚邪」とは地勢の低い土地を指す。