哲学するとは

哲学するとはどういうことか。

いくつかの理解を拙著から紹介しましょう。

開かれてあること

哲学的探求は、目の前の現象に呼びとめられ、立ちどまるところから始動する。目の前の事象に驚かされ、問いかけられるためには、心身をオープンにし、外部に開放しておかなければならない。予備知識や先入観で頭がいっぱいだと、新しい物事を受け入れる余地がない。事柄をありのままに捉えられず、「現実」を取り逃がしてしまう。

 

現象に聴き従う

哲学は、知を愛し求める探究的な営みである。それに応じて哲学は、常識や既存の考えに安住することなく、一つひとつの事柄について徹底的に吟味する。それはきわめて能動的・主体的な活動であるといってよい。しかし問うこと、考えることには、現象に呼びかけられ、それを受けとめる、それに聴き従うという服従的な態度が求められる。

 なるほど「服従」は科学にも共通する態度である。眼前の現象がどのような原因の結果であるのか、それを掴むためには現象に対する「服従」が要求される。しかし科学の最終的な目的は、原因を突きとめ、因果関係を明らかにすることにある。因果関係が解明されてしまえば、原因を操作することで、望む結果を手に入れることができる。Fr.ベーコンが指摘するように、「自然は、服従することによって征服される」のだ。

 

驚くという力

哲学は、アリストテレスが指摘する通り、驚くこと(thaumazein)から始める。それは必ずしも目を奪われるような事態である必要はない。むしろあまりに平凡で、わたしたちが見過ごしそうになる、現に見過ごしている「ごく身近の不思議な事柄」(アリストテレス『形而上学』)こそ問題かもしれない。わたしたちはそれらを目にしていながら、見ていないということが多いからである。米国の海洋生物学者、R.カーソンは、ある夏の星空について、次のように書き残している。

わたしはそのとき、もしこのながめが1世紀に1回か、あるいは 人間の一生のうちにただ1回しか見られないものだとしたら、この小さな岬は見物人であふれてしまうだろうと考えていました。けれども、実際には、同じような光景は毎年何十回も見ることができます。そして、そこに住む人々は頭上の美しさを気にもとめません。見ようと思えばほとんど毎晩見ることができるために、おそらくは一度も見ることがないのです。(カーソン『センス・オブ・ワンダー』)

 

対話し続けること

そもそもそれ〔わたしが心を砕いている事柄〕は、ほかの学問のようには、言葉で語りえないものであって、むしろ〔教える者と学ぶ者が〕生活を共にしながら、その問題の事柄を直接にとり挙げて、数多く話し合いを重ねてゆくうちに、そこから突如として、いわば飛び火によって点火されたともし火のように、〔学ぶ者の〕魂のうちに生じ、以後は、生じたそれ自身がそれ自体を養い育ててゆくという、そういう性質のものなのです。(プラトン『第七書簡』)

 

「哲学」という語から考える

「哲学」という日本語は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した洋学者、西周の手による造語である。最終的に「哲学」という訳語を採用したものの、西は当初「希哲学」「希賢学」という訳語を使用していた。ギリシア語の原語(philosophia)は「知」(sophia)と「愛」(philia)という言葉が組み合わされたものであるから、これらはほぼ直訳といってよい。「哲学」の原義は、「真理の奥底を極めなければやまぬ」、「あくまで知ろう」とする徹底した知的探究にあり、これを欠いては「哲学」(philosophia)とはいえない(田中美知太郎『哲学初歩』岩波書店)。

 

「死の練習」としての哲学

ソクラテスは、対話相手と自分の「考え方」だけでなく「生き方」を吟味する。生き方の吟味を欠いて、ソクラテスの対話は成立しない。それは哲学者(愛知者)をソフィスト(知者)から区別する一線でもある。

 死が差し迫ってようやく魂に配慮するのでなく、今、ここで、対話的探究を通して生き方を吟味し、魂の世話をすること、それによって魂を自由にすること、プラトンはそれを師のソクラテスとともに、「死の練習」(meletē thanatou)と呼ぶ(プラトン『パイドン』)。

「死の練習」を実践するためには、「死」を特別視する態度から自由にならなければならない。「死とともに生きる」こと、「死すべきものたち」 (brotoi)として共に生きることを学ばなければならない。