研究費

せっかく企業の研究グループから大学に来たのだから、自分の興味があって汎用性の高いFundamentalな研究テーマを中心にやっていこうと考えていた。教員一年目にはスタートアップのための補助が出たが、これは一年限り。二年目以降は研究室に配属された学生全員には新しいPCを買うことができない程度の「運営交付金」が支給される。勇退された先輩教員から譲り受けたPCはしばらく使えるので有難い。
 回路のアイデアを実証するためには試作して評価をしなければならないし、学生は一度は学会で発表することが期待されているので、それらの資金は大学外から獲得しなければならない。今分かっているのは、倍率4倍の科研費、さらにWindowの狭い財団の助成金、あるいは企業の共同研究費。科研費は倍率が高いことから、競争を勝ち抜いた研究者は「当たった」と表現される。「外れた」人には宝くじのような表現にする方が気が楽だからだ。審査は同じ分野の研究者が務めるそうでフェアに行われているから、採択された研究テーマは、とても重要でやる価値が十分あって、その研究者によって実現可能だ、とみなされる。「当たる」には、これらをアピールできる申請書がMustである。自分の申請書は科研費や財団の助成金が得られる程度まで十分に魅力的なものには練られてないようで、残念ながらこれらのPathでの研究資金はまだ得られていない。自分が獲得できなかったことを嘆くより、代わりに獲得した研究者が一人増えたことを喜ぶことに努めよう。
 「自由度と獲得資金が反比例の関係にあるなら、獲得資金は最小限としてできるだけ自由度を取りたい」と自分に言い訳をしておこう。そうすると「広く浅く」という方向になろう。大変有難いことに、企業の研究者から「この問題をいっしょに考えてほしい」という方が現れている。技術の最先端は企業にあることも多いので、最新の問題意識に触れることができる機会にもなる。国立大学法人の教員の給料の3/4は国税なので、研究の成果のかなりは国民にお返しすることを期待されている。従って一企業だけに貢献するような研究ではよろしくない。幸いなことに、共同研究の契約は一企業の特殊な課題解決限定としなくてもよいようで、汎用性のあるもっと大きな範囲の問題設定でやっていけそうだ。企業の問題解決になるだけでなく、公へも貢献できるようなテーマ設定が可能だ。研究の結果を学生は自由に発表することができる。企業の立場で見れば、できるだけ早く答えがほしいのでスケジュールを厳しめにしたくなるだろう。国立大学法人の教員からすれば、優先するのは学生がじっくり考える時間が取れることだ。時間当たりの研究費が多くなくても、成果のスピードよりはじっくり考える時間を優先したい。
 企業からの助成金はさらに有難い。共同研究費では使途がその研究の対象に限定されているのに対して、ずっと自由度が高いから。共同研究テーマに沿っていない内容の研究テーマをやっている学生が学会で発表するのに必要な費用を賄うことができる。学生の成長を支えている企業はそれだけで大きなVisionを持っていることを証明している。一方、OECDの中で大学の研究費を減らされているのは日本くらいだそうだ。学術論文数にも相関が現れているとの報道があった。人口減少のスピードで総予算を減額するのは賛成だが、教員の数も減ってきているのでせめて教員一人当たりの研究費は保持する程度に抑えるべきだろう。これも日本のスケーリング則に加えてほしい。「高等教育の無償化」とは、「入学までは手厚くするが大学入学後は手薄くする」という定義ではないはずだから。(2018/7/8)
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□+□=10


先日、プロサッカーのユースチームのコーチや大学でコーチングを担当されてきた方の講演を拝聴する機会があった。たくさんの具体例を紹介されながら、若者たちが自分の考えで動くことができるようになる声のかけ方など、大変興味深いお話であった。その中で、「1+9=□」と「□+□=10」の比較は特に心に残った。日本の教育では、前者のような唯一の答えがある問題をたくさん解くことが重視されてきたので想像力に乏しく、一方ヨーロッパでは、後者のような無数の答えがある問題を解く訓練によって想像力が養われてきたのではないか、というものであった。
 「□+□=10」を見てすぐに思いつくのは新製品の研究開発だ。他の製品と同様、集積回路の研究開発とは、その集積回路が目標とする性能指標を満たすためにはどのような回路やデバイスを組み合わせればよいかを考えて、たくさんある可能な組み合わせの中から製造や製品テストのコストが最小になるような最適なものを選択する作業のことである。目標性能が右辺の数字、左辺の□は手持ちの回路やデバイス技術である。既存のもので等式が満たせるような解がないなら、新しい回路やデバイスを開発しなければならない。そのようなピースを見つけられたら幸せだ。そのアイデアが新しく、効果があって、他の人には容易には創造し得ない場合、それが発明となる。想像力が重要なのは明らかだ。ここで思いつく問題は、「答えがたった一つだけ見つかったという場合、果たして本当にそれが最適なのか」である。たくさんの答えが見つけられた人が、その中から最善のものを選んだとすれば、恐らくそれは一つしか見つけられなかった人の答えより良いことが多いのではなかろうか。非常に直観の優れた方の唯一解はひょっとすると、そのまま最適解かもしれないけれど。それではたくさんの答えを出せるには何が必要だろうか。
「1+9=□」の左辺が異なる問題をたくさん解いてきた人は、そうでなかった人より、複数の答えを出せるはずだ。自然数同士の場合、少数同士、分数同士、正と負の数の組み合わせ、複素数同士、変数を含む場合の計算をやってきた大学生なら、中学生よりずっと多くの「□+□=10」の答えを出せる。基本な型を知らない人には、出せる答えの数はゼロ~可能性を思いつく手段がないから。回路やデバイスの組み合わせ問題なら、回路やデバイスを習ってきた学生Aさんはたくさんの組み合わせを見つけられよう。回路やデバイスはやってこなかった代わりに物理や数学のたくさんの分野をやってきた学生Bさんはどうであろう? 知っている型が少ないので、Aさんよりずっと少ない組み合わせしか見つけられないだろう。しかしその答えは、Aさんの複数の答えの中にはないようなものかもしれない。多分Aさんの答えより最善となるケースはとても少ないだろうが、誰も考えなかったようなすごい答えである確率はAさんより高いかもしれない。その後、Bさんは回路やデバイスを勉強していって発明を増やしていけるし、Aさんは回路やデバイス以外の学問を自分で勉強していって発明を増やしていけるはずだ。
製品技術開発を担う研究者・技術者が発明を行うには、「□+□=10」という方の問題を設定でき、その問題に対してたくさんの解を提示でき、その中から最善の答えを示せる人だ。その前提は、膨大でなくても少なくともいくつかの「1+9=□」のような型を理解していることである。

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大学と企業の研究

 企業の研究職を25年間、その後大学の教員を1年間やった者として、研究職における企業と大学の違いを感じ始めている。次の図はそのイメージだ。

   企業の研究者は一つの研究開発チームに所属する。チームの目標は、その企業がこれから生み出す新しい製品やサービスが社会に広まるための、元になる技術を開発することだ。各研究員はそれぞれの研究課題を発掘して、自分でまたは複数で課題を解決する最善の手段を見つけることが期待される。それぞれの開発した技術は時間がかけられていて、多少の条件の変更にも効果が変わらないようなロバストなものとなっている。つまり、それぞれの研究成果はいくらかの汎用性を持つ十分太くて深い技術だ。キーとなる技術が重ね合わさり、目標の開発を達成する。大きな宝が見つかるような太い井戸になっている。
 一方、大学で研究を行う教員は、講義の担当や学科の仕事などかなりの数の独立した仕事も行うため、課題の発掘からその問題を深く考え自分の手を動かして答えを求めるところまですべてを自分で行うことができない。卒研生や大学院の学生の研究教育のためには、各学生にユニークなテーマを与えてどのように研究をするかをアドバイスしなければならない。結果として、研究課題の発掘とアドバイスだけを教員が担当して、その問題を深く考え手を動かして答えを求めることを学生が担当するしかなさそうだ。教員は自分の手で研究を進めることが難しい分、複数のテーマを複数の学生といっしょに、それらを同時に挑戦する機会を得ることができる。従って、企業の研究者と比べれば、大学の教員は短いがもっと太い井戸を掘る。深い部分は各学生に任せる。
 もう一つ大きな違いは、大学の教員は研究テーマを自分で決めることができる点だ。資金がたくさん必要になる研究テーマを選んだ場合は、資金を取ってくるための活動にたくさんのエネルギーを必要とするだろう。それができる教員はすばらしい。自分にはまだそこまでの才覚がないので、資金がそれほどなくても済むテーマを選べばよい。できれば、将来性の大きな分野をテーマに選びたい。学生にとっては大学での研究経験は将来のキャリアに大きな利点になり得る。将来性が膨大でない場合は、研究経験が将来間接的に生きてくるような研究教育が大事になる。いずれにせよ、一番大事なのは自分がワクワクすることだ。その点については幸い、企業と大学で潜在的な違いはない。「同じアホなら踊らにゃ損」と同じで「同じやるなら楽しまなゃ損」でいきましょう。
 自分の来た道を振り返ると、先生に研究のやり方を教わって一つの研究成果を出す経験をし、その経験を企業でチームとしての研究開発に生かしてそこに貢献をし、先生から教わったことを次の学生に伝える経験を始めている。Happyなことです。


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anime-pe-2

Optimum vs. non-optimum; theory and animation created by Matsuyama
Voltages vs. position (zero indicates the nearest and one indicates the farthest) with pre-emphasis times of Topt X 0.8 (the left most), X 1.0 (center) and X1.2 (the right most) 

anime-pe-1

Step pulse vs. pre-emphasis pulse; theory and animation created by Matsuyama
Top: RC line driven by Vin
Middle: Waveform at the mark with a step pulse
Bottom: Waveform at the mark with a pre-emphasis pulse

啐啄同時


啐(そつ)は卵からヒナがかえるときに殻を中からつつくこと、啄(たく)は母鳥が外からつつくこと。啐啄同時(そったくどうじ)は、殻が割れるのは両者が同期したときであることを意味し、禅語の一つされている。子と親、部下と上司、妻と夫などは、関係性が最初にあってそこから生まれる対立する言葉である。同じ人が子であり部下であり妻となる。それぞれは関係性のある他人との相互作用があった瞬間のみの名称ということだ。親との関係性が出た瞬間に子になり、上司との関係性が出た瞬間に部下になる。
  学生と教員も同様だ。これから社会のチームメンバーに加わってくる学生に、教員はこれについてものの見方を伝えたいと思って説明を工夫しようとし、学生はそれを聴いて自分のイメージを創ろうとする。学生にはそれぞれイメージの湧き方が違うので、教員は複数の方向からの見方を話さなければならない。学校での啐啄同時は、教員が伝えようとしたことを学生がイメージした瞬間のことだ。残念なのは、講義では1人対50人、100人なのでその瞬間に出会ったと認識できないこと。認識できないからといってそういう瞬間がなかったとは思えない。幸運なのは、卒業研究では一対一なのでたまにそういう瞬間だと思うことがあるとき。自分が自分の先生たちから教わったことを次に来る人たちに伝えられたと思うときに、時空を超えたつながりを感じることができてHappyな気持ちになる。(2018/4/22)

 

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学術論文にも歴史を書くべきケース


  回路に関する学術論文の章立ては、既存回路の問題提起=>回路の工夫の提案=>実証結果の紹介、が一般だ。研究の開始に当たる問題の発見がどのようにされたかを示すことはほとんどない。しかし、回路の何が問題かを示すことの重要性は、その問題の一解決策を提示する重要性に比べてそん色ないどころか、場合によってはより重要なことになり得る。その論文での解決策はその解決策が最適なような前提でなされたものであって、前提が変われば最適な解決策が変わり得る。一方、提起された問題はそのような前提に関わらず、より一般的となり得るからである。こういう場合には、どのようにして問題が発見されたかを示しておくことが大事だったと思う。
    例えば、発振回路の論文では、周辺の回路が動作を開始または停止するとそれに伴い熱の流れの変化があるため、発振回路を構成するインダクタの実効的なインダクタンスの温度変動によって発振周波数が変動するという問題提起を行い、温度変動への耐性を向上させる補償回路を提案し、その動作を実証する、という章立てであった。あたかもそのような問題点はじっと考えて先験的に思いついたように受け止められるかも知れない。しかし現実には、この問題の原因が熱流の変化に伴う温度変動であったことを突き止めるのに一年半をかける必要があった。発振周波数が時間経過とともに少しずつ変動するドリフト現象があったため、その原因を見つけて対策する必要があった。当初は、回路動作に伴う電源変動や基板ノイズを疑い詳しく調査しても原因が分からなかった。行き詰って、別事業所の通信モジュールを開発しているグループの方に話を聴いてもらうと、大電力の無線信号を出力するパワーアンプ周りは温度変動に注意することが常識であることを教わった。それに比べれば三桁も小さな電力のパワーアンプがどれだけ発振回路に影響するか定量化する必要が出た。さらに別の事業所で、パソコン内の温度解析を計算機シミュレーションで行っている方が居られることを知って、自分の問題となっている発振回路周りの条件を入力して発振回路付近の温度変動を0.1K, 1us, 10umの分解能でシミュレーションできないか相談した。パソコンの方は1K, 0,1s, 1cmの分解能であるので、どうなるか分からないと言いつつ計算をして頂いた。得られた温度変動の波形に、発振回路の温度感度係数であるHz/Kを掛けると、果たして周波数のドリフト波形に一致した。この瞬間の感動は忘れられない。このような長時間と多数の関係者の助けで見つけられた問題発見に比べれば、対策の補償回路を提案したりそれを実証したりすることは小さなことだった。自分が読者側なら多分問題発見に至るStoryの方を興味深く読んだと思うが、それは学術論文の作法にはないので、これまで公開する機会は得られなかった。研究者の仕事の何割か~ひょっとすると50%にもなるのではないか~が、この問題発見・問題発掘に充てられることを考えると、これを互いに公表し議論し合う機会が必要になってくるかも知れない。(2018/3/11)
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再試験を逃げない学生は


電気電子学科の必修科目は少なくない。一つでも単位が取れないと卒業できない。三年までに必修科目を取ることが卒業研究に進む条件になっている。一年の必修科目を落としても三年間で取ればいいと思っている学生もいるであろう。担当した必修科目の定期試験で合格できなかった受講生は、出席や宿題提出の回数などが基準を満たしていれば再試験を受けることができる。今回は数時間では終わらない演習問題10問に説明文を付けて回答を提出することを、再試験受験の資格条件とした。例え再試験が満点でも、評価点は60点で評価は「可」となるルールだ。レポートは大変そうだし可しか取れないなら来年再履修でいいや、と考える学生もいるだろう。果たして、レポートを丁寧に書いて期限までに提出し再試験を受けた学生は少数であった。

   その科目が得意だとか、テストは要領よくパスしてしまう学生は再試験にはならないだろう。ゆっくり時間をかけて理解していくことが得意な学生には再試験になることがあろう。再試験になって面倒なレポートをしっかり書いて提出できる学生なら、提出した瞬間に合格を出したいくらいだ。なぜなら、社会に出て自分の問題に向き合ってもそういう人なら必ず、逃げないで答えにたどり着くまでやり抜くだろうから。要領の良さはどんな時でも出せるとは限らないが、身に付いた逃げない姿勢はいつも出せる。再試験を受けた学生はすべて合格の「可」であった。再試験の「可」には胸を張っていい。
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研究室にもメダリストがいる



 

    30年前の物理学科では最終学年になると、自分の興味のある研究をされている先生が主催する洋書の専門書を輪講する会に参加することになっていた。宇宙論の本はそれ自体読んで面白かったことを覚えているが、自分がそこに書かれていることを発展させることは期待されていなかったし、当時を振り返って中身の薄い一年を過ごしたように感じる。言い換えれば、自分の興味を深める時間は十分にあったはずなのだが、自分にはその時間を有効に使わなかったということだ。
 工学部だからか、30年後の今だからなのか不明だが、現在工学部では最終学年に卒業研究を必修単位として、それを行うことになっている。各学生には独立した研究課題が与えられ、一年をかけてその答えを見つけるため研究を行う。目指した答えまで到達しなかったとしても、得られたものがこれまでに発表された研究にない場合、それは研究成果と認められる。得られた結果に進歩性が十分認められなくても、そこへのアプローチには独自性があるはずだ。つまり成果のあるなしによらず「研究すること」を体験することができ、そのこと自体に意義がある。これから工学の問題を解決する研究者・技術者の第一歩となるからだ。
 研究発表はわずかな時間しか与えられないが、自分だけの問題とそれに対して自分が取り組んだ行き方をアピールする機会となる。自分固有のタイトルの付いた競技で自分の技を披露するようなものだ。競技の相手は他人ではない。聴いている人たちに自分のやったことをしっかり理解してもらえるプレゼンテーションができる理想の自分が相手だ。研究内容は卒業研究論文にまとめ学科に提出する。大学図書館に保管されることなく、受付印が押されて即日返却される。中をみるのは担当教員くらいだし、いくらでも手を抜くことができるシステムだ。しかし、他人が見るとか見ないとかに関わらず、手を抜かずに書き上げたと思う学生はその競技の勝利者だ。他人のつけた「合格」よりずっと価値のあるメダルになる。
 と言っても、それで満足したくはない。やったことを興味のあるかも知れない外部の研究者・技術者に伝えるために、在学中に学会の研究会などの機会にぜひ発表できるようにしよう。タイミングを計って発表要旨を研究室のウェッブサイトにLinkして公開しよう。一年間考えたことが他の人の研究につながっていく契機になる。その瞬間が社会に対する貢献だ。非公開ではそのような機会を失ってしまう。
 担当教員が喜ぶ瞬間は恐らく、研究室を出た学生がその後も卒業研究を通じて獲得した研究の取り組み方を工夫し続けていって、身の回りの世界に自分のやったことを積み上げていっているのを知ったときだろう。しかしそれは疑う余地のないほど今すでに明らかだし、もう喜んじゃっていいのではないかと思う。なのでそうしよう。
(2018/3/3)
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