【概要】山道を整備して功績があった村長の某(石川武右衛門?)を顕彰した天保二年(1831年)の石碑である。平らな板状の石碑ではなく、江戸時代によく見られる直方体の形状をしている。
篆額名:なし
篆額揮毫名:なし
撰者:文御道人
揮毫者:不明
刻者:阿良里村 藤左ヱ門、四良兵ヱ、徳三良。「阿良里村」は現「安良里」。
所在:静岡県賀茂郡西伊豆町一色の第二発電所付近。静岡県道59号伊東西伊豆線の南側にある。
建立時期:天保二年(1831年)夏六月
【碑文】
南豆河越山険水溢羊腸屈曲行程六里津堠七圮庶民悩往復牛馬苦運送越岩谷里正石氏名武者嘗有刊山治水使車馬易往来之志焉雖然失費若干也於是請救於四方開桟道造津梁不日而土工成業焉郷曲之人比諸神禹之功且石氏千般苦辛百様艱劬乞勒諸石予善其志乃以述其指趣焉銘曰
夾山漏水 諸民所右 石氏之功 勒石示後 石可朽也 功名不朽
天保辛卯夏六月日
文御道人撰

【訓読文】
南豆の河越、山険しく水溢(あふ)れ、羊腸のごとく屈曲して行程六里、津堠(しんこう)七たび圮(こわ)れ、庶民は往復に悩み、牛馬は運送して岩谷を越ゆるに苦しむ。
里正の石氏、名は武なる者、嘗て山を刊(けず)り水を治め、車馬をして往来を易(やす)からしめんとするの志有り。然りと雖も費を失うこと若干なり。
是に於いて救いを四方に請い、桟道(さんどう)を開き津梁を造らんとし、日ならずして、土工、業成る。郷曲の人、諸(これ)を神禹(しんう)の功に比し、且つ石氏の千般の苦辛、百様の艱劬、諸を石に勒(ろく)せんことを乞う。予その志を善しとし、乃ち以て其の指趣を述ぶ。銘に曰く、
夾山の漏水 諸民右(ゆう)する所 石氏の功 石に勒して後(のち)に示す 石は朽つ可きも 功名は朽ちざらん
天保辛卯夏六月日
文御道人撰す


【現代日本語訳】
伊豆の南部の川越の地は、山は険しく水が溢れ、道は羊の腸のように曲がりくねって行程は六里にも及んでいる。渡船場は七たびも崩れ落ち、庶民は行き来に頭を悩ませ、牛馬は物資の運搬して岩谷を越えていくことに苦しんでいた。村の名主である石氏、名は武という人物が、以前から山を切り拓いて水を治め、車馬の往来を容易にしようという大志を抱いていた。しかし、それにはいくばくかの費用がかかる。そこで四方に広く協力を呼びかけ、崖道に桟道を架け、川には橋を架けたところ、幾日も経たないうちに土木工事は見事に完成した。土地の人々は、この偉業を古代中国夏王朝の治水の祖・禹王の功績になぞらえて称えた。また、石氏が味わった千もの苦労と百もの骨折りを思い、この功績を石碑に刻んでほしいと乞い願われた。私もその志に感銘を受け、ここにその趣旨を書き記す次第である。
銘に言う、
山は険しく水は溢れており、人々は遠回りを余儀なくされていた。石氏の立てた大功で安全な往来が可能になったので、これを石に刻み、後の世へと伝え示そうと考える。たとえこの石碑がいつの日か朽ち果てることがあろうとも、その功績と名声は永遠に朽ちることはないであろう。
天保二年(1831年)夏六月吉日
文御道人がこの文を著す

(1)「河越」は他の事例に従って訳文では「川越(かおつ)」とした。
(2)「津堠」は『漢語大詞典』では「渡口上供瞭望用的土堡(渡し口の上に設けられた、見張り用の土造りの堡塁)」とするが、ここでは単に「渡し場」の意味とみなした。
(3)「圮」は破壊されること。
(4)「里正」は、江戸時代の村落における村の行政を担った有力農民・村役人で、里正、庄屋。
(5)「石氏、名は武なる者」は、中国風の名前にして「石氏、名は武なる者」としたと思われる。碑側に発起人として「石川武右衛門」の名があり、この人物は、本石碑の被顕彰者「石氏、名は武なる者」の後継者か。
(6)「津梁」は橋。
(7)「禹」は伝説上の夏代の皇帝で、治水に功績があった。
(8)「艱劬」は艱難辛苦。
(9)「諸民所右」の「右」は難解である。ひとまず、「迂回する」意とした。『詩経』国風 秦風「蒹葭」に、「溯洄從之 道阻且右(溯洄して之に從わんとすれば、道阻にして且つ右す)」(川を遡って行こうとすれば 道は険しくかつ遠くへ迂回する)とある。鄭玄の箋に「右者、言其迂迴也。」とある。撰者は詩経のこの箇所を踏まえたのであろう。
なお、この碑のそばに、険路で命を落とした馬の鎮魂碑がある。昭和七年(1932年)に建造された。
