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世話人の堂囿(どうぞの)です。今月6日に、第1回しずおか哲学カフェが開催されました。「何人の方が来てくれるだろうか…」とドキドキしていましたが、最終的には20名の方にご参加いただきました。足を運んでくださったみなさま、本当にありがとうございました!!

今回は、「受精卵の遺伝子を操作することは許されるか」というテーマで議論を行いました。私たちの議論で中心となったのは、社会ですでに受け入れられている科学技術と受精卵の遺伝子操作に違いはあるのかというものでした。「違いはない」と考える立場からは、次のような議論が提示されました。「確かに遺伝子操作にはリスクがあるかもしれないが、私たちが今日利用している科学技術も、導入当初はリスクゆえの反対論が存在した。こうした反対論を押し切る形で導入された科学技術の中には、今の社会にとって必要不可欠なものもある。そうだとすれば、反対論に振り回されるべきではない。」

これに対しては、これまでの技術と遺伝子操作との「違い」を強調することにより、慎重に考慮すべきという意見や反対の意見が提示されました。「受精卵の遺伝子操作を認めれば、結果として似通った(知的・身体的に一定の性質をもった)人間が生まれることになり、環境の変化に適応できなくなるのではないか」という生物学的な懸念や、「そもそも操作すること自体が、生まれてくる子どもを人として尊重せず、モノとして扱っている」という倫理的な懸念が、そうした意見の背景にはありました。

しかし、倫理的な懸念にもとづく議論に対しては、「子どもの病気を治すことはモノ扱いではないから、少なくとも治療のための操作は認められるのではないか」という部分的容認論や、「私たちの社会は親が子どもの能力を強化することを認めているのだから、治療だけではなく改良も認めるべきではないのか」という全面的容認論の双方から批判が提起されました。ただし、これらの批判を受けてもなお、「<操作>と<子どもに対する責任>は両立するのだろうか」「操作を認める社会は優しさを失うのではないか」といった違和感が消え去ることはありませんでした。残念ながら、こうした違和感が、根拠のない恐怖に過ぎないのか、それ以上の根拠をもつものなのかを明らかにするまでには至りませんでした。今後、このカフェを継続していくいく中で、このテーマを引き続き考えていきたいと思います。

次回のしずおか哲学カフェは、6月1日(土)です。参加者のみなさんと決めたテーマは「家族」、ファシリは古賀さん(ホワイトボードの前でピースしている人)です。来月半ばには、このFacebookであらためてお知らせします。スリリングな会になること間違いなし(ですよね、古賀さん?)、ご期待下さい!!