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次回のテーマをお知らせします。

テーマ 私たちは効率化によって(何を得て)、何を失っているのか?
開催日 4月1日(土)
時間  15:00~18:00(受付開始:14:50~)
場所  Zoomミーティング(URLは参加申込をされた方にお知らせします)
参加費 無料
申込み こくちーず(クリックすると申込画面へ移動します)

最近、タイパという言葉を耳にするようになりました。タイパとはタイムパフォーマンスの略で、コストパフォーマンスのコストを時間に置き換え、費やした時間に対するパフォーマンスの高さを指します。

このタイパを象徴する行動が映像コンテンツを早送りで視聴し、その内容を把握する「倍速視聴」でしょう。時間を節約して「効率的」に知識を得るという観点からは非常に合理的な行動のように思えます。筆者自身も録画した情報番組は、そのような視聴形態をとることが多いですし、大学生はコロナ禍で録画された講義コンテンツを早送り視聴することが一般化しているとも聞きます。

ここまでであれば、タイパや倍速視聴による効率化に対して疑問を持つことは少ないと思います。ただ倍速視聴するコンテンツが、「間」を大事にするドラマだったりしたらどうでしょうか?関連して筆者が若い方と会話したときに驚いたのは、「ミステリーなどのコンテンツを先に結末をネタバレしてから見る。その方が最初からどこが伏線になっているか考えながらみることができて、再度見直す必要がなく効率がよい。」ということでした。ここまでくると何となく引っ掛かりや、違和感を持たれる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

さらにコロナ禍で移動が制約されたことにより、結果的に「効率化」が進んだ面があります。通勤・通学に要する時間や、出張のために長時間移動することがなくなったというのは非常に効率化に寄与したでしょう。筆者自身も出社せず、在宅で業務やオンラインで打合せすることが多くなり、それで仕事上のニーズの大半は満たせているように感じます。ところがここでもリアルで対面することがなくなったことによりつながりが薄くなったと感じますし、対面を経た後でないと、どこか居心地の悪さというかやりにくさを感じます。出張がなくなって、普段なら訪れることのないような、その土地の空気感のようなものを味わえなくなったということも感じます。

いくつか事例を挙げましたが、いずれも確かに時間を効率的に使えるようになり、それを何か他のことに充てられる(ex:新たな知識の獲得)ことはあるでしょう。一方で、上では引っ掛かりや違和感と表現していますが、「効率化」によって何かが失われている感覚も広く共有できるのではないでしょうか?それは、感動や驚き、人とのつながりといった情緒的なものだけなのでしょうか?今回の哲学カフェでは、効率化が私たちにもたらすもの、特に効率化によって失っていることについて考えてみたいと思います。
(文責・ファシリテーター:土井隆史)

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テーマ あらためて、将来世代に対する責任について考える
開催日 2月4日(土)
時間  15:00~18:00(受付開始:14:50~)
場所  Zoomミーティング(URLは参加申込をされた方にお知らせします)
参加費 無料
申込み こくちーず(クリックすると申込画面へ移動します)

2022年2月に開催された第18回しずおか哲学caféでは、「将来世代に対する責任について考える」というテーマを取り上げました。取り上げた背景には、2015年に国連で合意された「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals=SDGs)」や、カーボンニュートラルに向けた国内外のさまざまな動きの中で、将来世代のために責任をもって気候変動に取り組もうという「世代間倫理」の気運の高まりがありました。
しかし気候変動をめぐる問題では、現代世代への責任、つまり「世代内倫理」も問われています。

昨年末に開催されたCOP27では、すでに生じている「損失と被害(ロス&ダメージ」が問題となりました。世界では、気候変動に対して脆弱な途上国を中心に、甚大な被害が出ています。昨年バングラディシュでは、国土の三分の一が水没しましたし、アフリカでは深刻な干ばつが起きました。いま生きている人々も、気候変動のために苦しんでいるのです。

しかし、気候変動に取り組む理由として挙げられるこれら二つの責任をめぐっては、いくつか考えるべき問いがあります。

一つ目は、現代世代のために気候変動の問題に取り組むことと、生まれていない将来世代のために気候変動の問題に取り組むことの間に違いはあるのかという問いです。例えば、いま干ばつに苦しんでいる人のための支援と、将来その土地に住む人が食料を得られるようにする支援とは異なるかもしれません。

二つ目は、両者の責任を果たすことの間に違いがあるときに、それらは対立するのか、さらには対立を解消するのは可能なのかという問いです。例えば、現在気候変動の被害に遭っている人に支援を行うことは、将来世代への負担につながるかもしれません。
三つ目は、対立の解消が困難であるとき、どちらかを優先する理由はあるのか、あるとしてどのようなものなのかという問いです。例えば、「生まれていない将来世代への責任は現代世代のものほど重くない」という考え方が正当ならば、現代世代への責任を優先する理由になります。

今回は、世代内倫理と世代間倫理という区分を踏まえ、これら3つの問いを検討することを通じて、あらためて将来世代への責任について考えてみたいと思います。(文責・ファシリテーター:堂囿俊彦)

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テーマ 情報量の多さは創造性を削ぐか〜異世界転生ものに対する違和感
開催日 12月3日(土)
時間  15:00~18:00(受付開始:14:50~)
場所  Zoomミーティング(URLは参加申込をされた方にお知らせします)
参加費 無料
申込み こくちーず(クリックすると申込画面へ移動します)

“異世界転生もの“と呼ばれるジャンルが近年人気を博しています。
“異世界転生もの“では、(様々な設定があることは承知の上ですが、)近代社会の記憶を引き継いで生まれ変わり、異世界にはない知識を活かしながら無双する、ということがあります。

筆者は、その異世界転生の主人公が羨ましく思える時があります。
私たち生きる現実世界では、インターネットが発達しており、かなり多くの情報を手に入れることができます。私たちが一日で知り得る情報量は、平安時代に生きている人の一生分の情報量に匹敵すると言われるほどです。しかし異世界では、基本的にインターネットのような高度な情報網がありませんので、現実世界を生きる人間の方が、圧倒的に情報量を持っています。それゆえに異世界では、他の人がまだ考えてもいない・やっていないことを始めるのは比較的容易なように思います。

しかし現実世界ではそうもいきません。周りの人たちは自分と同じような環境で生きていきているため、持っている情報量の差も、異世界ほどはありません。また自分が普段アクセスしている情報は、同じように他の人もアクセス可能な情報であり、差別化することも難しいです。過去の情報の蓄積から類似事例が豊富に出てくるが故に、他の人がまだ考えてもない・やってもいないということを探すのも一苦労です。

それゆえに、私たちは異世界という“情報共有網が未発達の世界“で新しいことを生み出す状況に惹かれるのかもしれません。それは同時に、現実世界での情報量の多さが、新しいことを生み出すことを阻害している可能性を孕んでいます。
今回の哲学カフェでは、インターネットが普及したことを背景に、得られる情報量が増えたことによる、創造性への影響について考えたいと思います。

文責・ファシリテーター:國弘彩

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テーマ 「なぜわたしたちは他人の熱意に引くのか?」
開催日    8月6日(土)
時間     15:00~18:00(受付開始:14:50~)
場所     Zoomミーティング(URLは参加申込をされた方にお知らせします)
参加費    無料
申込み こくちーず(クリックすると申込画面へ移動します)

自分の思いの丈を熱く他人に語って引かれてしまうというやらかし体験は、誰しも一度くらいはあるのではないでしょうか。または、他人の熱い語りを聞かされて思わず引いてしまった経験はないでしょうか。
内容に直感的に引いてしまうというのはあるかもしれません。
たとえば、法に触れるような犯罪行為について熱弁を振るわれたら、生理的な嫌悪を覚えるのは当然でしょう。自分が全く知らないこと、興味がないこと——アイドルであるとか、釣りであるとか——のことを熱弁されたら、白けるばかりか、生暖かい対応をしてしまうでしょう。なんとなく聞き知ってはいるものの他人事としか思えない事柄——たとえば、所縁もない遠い国での不幸な出来事——を力説されたら、反応に困り、裏があるのかと邪推し、距離を取ってしまうかもしれません。
しかし、わたしたちが興味関心をもってしかるべきこと、わたしたちみんなに関わること、自分事として受け入れられるかもしれないこと——たとえば地方選挙であるとか、リニア工事であるとか、地球環境——であったとしても、同じように引いてしまうのではないでしょうか。
では、これは、誰が熱く語るのかという問題でしょうか。
さて、どうでしょう。内容的には真っ当なことを、信頼を寄せる知人友人が、圧倒的な熱量をもって語りかけてきたときのわたしたちの最初の反応は、共感ではなく、困惑ではないでしょうか。もしかすると、冷や水をかけるような応対ですらあるかもしれません。しかも、悪意ではなく、善意から。たとえば、親戚の子どもがあきらかに先行き困難な将来を熱っぽく語り出したら、その子の真摯な思いに共感するよりも、冷静に諭すような現実的な言葉を投げかけてしまうのではないでしょうか。そればかりか、子どもの熱意それ自体を冷やすような言葉を浴びせてしまいがちではないでしょうか。
なぜわたしたちはそのような醒めた反応をしてしまうのでしょうか。なぜわたしたちは、他者の熱意を真正面から受けとめるのではなく、それをいなしたり、斜に構えた態度をとってしまったりするのでしょうか。なぜ熱い共感ではなく、生暖かい視線が、わたしたちのデフォルトのスタンスになりがちなのでしょうか。次回の哲学カフェでは、他者との関係における温度差の問題について考えてみたいと思います。(文責・ファシリテーター:小田透)

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テーマ 「私たちはなぜ数学に無関心なのか」
開催日    6月4日(土)
時間     15:00~18:00(受付開始:14:50~)
場所     Zoomミーティング(URLは参加申込をされた方にお知らせします)
参加費    無料
申込み こくちーず(クリックすると申込画面へ移動します)

先日、とある議員が「三角関数はその分野に進む学生にだけ学ばせれば良い」といった旨の発言し、これを巡ってネットでは様々な反応がありました。ここで言われる「三角関数」というものが「数学」の代表例であるとすれば、これは数学についての発言だと考えて良いと思います。日常的に数学に触れている身としては非常に遺憾に思いますが、この発言にどこか賛同できる人がいるだろうということも想像に難くありません。

実際には、三角関数に限らず、わたしたちの世界では数学がなくてはならないものとなっています。三角関数が無ければ電子機器の製造はおろか、建築もできないでしょう。その他にも飛行機を飛ばせるのも、安心して通話できる暗号技術があるのも、明日の天気がわかるのも、その他にもありますが、わたしたちは数学の恩恵によるところが大きいはずです。
にもかかわらず、先述の議員の程ではないにせよ、数学に対して関心をもつ人は多くないようにも思います。歴史を題材にした番組、例えば大河ドラマなどがそうですが、こういったものは非常に関心が向けられています。この他にも美術のドキュメンタリーや、生物が中心となる作品、また、天文学者や化学者などが関心を集めることがあるにしても、数学に同様の関心が向くことは極めて稀だと思います。

以上のような数学の有用性と、数学への無関心のように、なぜ同じ数学に対してこれ程ギャップがあるのでしょうか。数学が馴染みのない言語を使っているためでしょうか。しかし、将棋などのように複雑で理解しづらいものでも、数学以上に関心を集めているものもあります。数学が関心を集めにくい理由があるのでしょうか。

今回は、ファシリテーターが個人的に感じる問題意識から、なぜ多くの人にとって有用であるはずの数学にあまり関心が寄せられないのか、ということをみなさんと議論したいと思います。人類で共有できるはずの数学に対して、このような無理解があるのはなぜなのでしょうか。数学はわたしたちにとってどのような存在なのか、という問いを目指して考えていけたらと思います。(文責・ファシリテーター:兒玉虎月)

次回のテーマをお知らせします。

テーマ 「ルールとは何か」
開催日    4月2日(土)
時間     15:00~18:00(受付開始:14:50~)
場所     Zoomミーティング(URLは参加申込をされた方にお知らせします)
参加費    無料
申込み こくちーず(クリックすると申込画面へ移動します)

世の中には、多くの(明文化された)ルールがあります。これらは、基本的には「守るべきもの(従うべきもの)」として私たちの前に置かれています。守られないルールは、その意味をなさないでしょう。
ルールは、多くの場合他者との社会生活において定められるものです。私たちが社会を形成して生きている以上、常に何らかのルールに従っていると言えるかもしれません。
しかし、私たちはいつでもどこでも、あらゆるルールに完全に従って生きているというわけではないでしょう。時と場合によって、従ったり従わなかったりしているのではないでしょうか。例えば、「赤信号みんなで渡れば怖くない」という名言(?)があるように、得てして、集団性においてルールは無視されがちです。あるいは、罰則や制裁が過小、ないしは存在しないために、有名無実化しているルールもあるかもしれません。ことによると、どんなに厳罰が科されているとしても、ルールに抵触するようなことが行われることもあるでしょう。単にそれが「ルールである」というだけでは、私たちはルールを守ろう(従おう)とはしないようです。
それではなぜ、私たちはあるルールに従ったり、従わなかったりするのでしょうか。ルールに従ったり、従わなかったりするということで、私たちはいったい何をしているのでしょうか。罰せられることを避けているのでしょうか。または、社会や集団の秩序を維持しようとしているのでしょうか。なぜ、ルールというものが私たちの目の前にあるのでしょうか。私たちにとって、ルールとはいったい何なのでしょうか。(文責・ファシリテーター:青木孝介)

次回のテーマをお知らせします。

テーマ 「将来世代に対する責任について考える」
開催日    2月5日(土)
時間     15:00~18:00(受付開始:14:50~)
場所     Zoomミーティング(URLは参加申込をされた方にお知らせします)
参加費    無料
申込み こくちーず(クリックすると申込画面へ移動します)

国連は、2015年に、2030年までに到達すべき「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals=SDGs)」を定めました。さらに菅前首相は、昨年9月、2050年までに実質的に温室効果ガスの排出をゼロにするというカーボン・ニュートラル宣言を出しました。こうした動きの中で、将来世代のために責任をもって行動しようという機運も高まっているように思われます。
多くの人は、こうした変化を望ましいと考えるでしょう。しかし本当にそうでしょうか。例えばSDGsに対しては、企業などが環境に配慮している<ふり>をするための道具になっており、事態の改善をもたらしてはいないという批判もあります。(こうした<ふり>をすることは、グリーンウォッシュと呼ばれています。)
それでは、グリーンウォッシュを防ぎ、将来世代が人間らしく生きていける環境を実質的に維持するためには、どのような行動が必要なのでしょうか。例えば私たちが、SDGsを掲げる個人や組織が実際に何をしているのか、それによってどのような影響がもたらされているのかをより詳細に調べ、その結果に基づき慎重に行動していくというのはどうでしょう。もちろんこれに対しては、「そもそも自分が出会うことのない人たちのためにそこまでする必要はない」という意見もあるかもしれません。しかし十分な知識にもとづき慎重に行動することが「将来世代への責任」に含まれないのだとしたら、そもそも「将来世代への責任」はどのように果たされるのでしょうか。
今回の哲学カフェでは、広く受け入れられていると思われる「将来世代への責任」について、みなさんとあらためて考えてみたいと思います。(文責・ファシリテーター:堂囿俊彦)

次回のテーマをお知らせします。

テーマ 「愛とは何か」
開催日    12月4日(土)
時間     15:00~18:00(受付開始:14:50~)
場所     Zoomミーティング(URLは参加申込をされた方にお知らせします)
参加費    無料
申込み こくちーず(クリックすると申込画面へ移動します)

愛とは色々な場面で使用される。歌でも、小説でも、普段の会話の中でも、様々な場面で愛という単語が出てくる。どうやら愛とは様々な側面を持ち、人によって様々な解釈をされているもののようである。
さらに私たちは時々、自分の行動や他人の行動に対して、愛を見出すことがある。例えば、病気の子どもを看病し続ける行為や、恋人にサプライズプレゼントを用意する行為、熱量のこもったアイドルを推す活動、ボランティアの災害救助活動など、関係性も対象も行為も全然違うのに、愛という言葉が使われることがある。そしてそれを、愛と思う人もいれば、愛と思わない人もいる。愛とは一体、何なのだろうか。
愛について立ち止まり考えるために、今回は「受け入れる」という観点から愛を考えてみたい。例えば、注意を聞き入れようと思えたり、喧嘩してでもぶつかろうと思える人もいれば、そうは思えない人もいる。また、面倒をよくみてくれている人からの忠告は従ってみようと思うが、そうではない人の忠告は聞く気になれない。ここに見られる「受容的な態度」と「無関心・反抗的な態度」の違い、この背景にあるものこそ愛なのではないか。今回のファシリテーターはこのように考えている。
そんなものは愛ではないと考える人もいるであろう。そうであれば、どういったものを愛と呼ぶのか、また、それはなぜなのだろうか。様々な場面で使用されているからこそ捉えることが難しくなってしまったようにも思える愛について、参加者とともに紐解いていきたい。(文責・ファシリテーター:國弘 彩)

次回のテーマをお知らせします。

・テーマ :生き物はなぜ殺されてもいいのか
・開催方法:ZOOMミーティング(URLは、参加申込をされた方にお知らせします)
・日 時 :2021年10月2日(土)15:00~18:00(ミーティングルームへの入室:14:50~)
・参加費 :無料
・申込み :こくちーずから申し込みをお願いします(クリックすると申込画面へ移動します)

先日見慣れない鮭の切り身がバターで炒められテーブルに並べられていました。魚体を輪切りにした厚みは15ミリ程のもので、これがあまりおいしくない。身が細かく崩れ、小骨は中に散在し、口に含むたびに骨を探して取り除く作業を強いられます。この見慣れぬ鮭の切り身はどのような方法で輪切りにされたのか?そんな疑問が浮かびます。真横から一気に切られたと思われるその姿を見ていると、機械的に、強力な力と驚くほどの鋭利さで速やかに処理されたのではないかと想像してしまいました。

これをわたし自身におきかえて考えてみることを試みます。わたしはある大きな養殖場の生簀の中でのびのびと仲間たちと毎日を過ごしています。大勢の仲間との生活は少し窮屈を感じることはあるのだけれど、空腹を感じたことはなかったし、淋しさもなく、恐怖を感じたこともない。そんな日常を大きな不満を持つことなく過ごす。4年ほど経つと兄妹たちが少しずつ見かけられなくなり、どうしているのか気にかけていると突然水から取り揚げられ、一切呼吸が出来なくなり、恐怖が全身を黒く覆うのだけど、そのまま意識を失ってしまった。それまで。意識のないままわたしは機械で細かく切断され、包まれ、運ばれ、売られ、調理され、人間に食われる。平穏で不満なく過ごし、恐怖と苦しみは一瞬、痛みを感じることもなく生を終えるのだけど、魚の生命をこのように扱うことは正しいことと言えるのだろうか。

今回は「輪切りの鮭」の見慣れなさをきっかけに想像を膨らませてみましたが、食事はわたしたちが生き物の利用を考える場合のごく身近な機会といえるでしょう。このような食事の例に限らず、動物は人間の欲求に応じて様々な形で利用されています。食用や観賞用、ペットなど目に見える形での利用や、研究・実験、その成果物など目に見えない形でも利用されています。今回はそのなかで最も厳しい利用の形である「動物の生命の利用」に焦点を当て、わたしたちが動物の生命を奪ってよいとする正当性の根拠を、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。(文責・ファシリテーター:秋野晋一)

次回のテーマをお知らせします。

・テーマ :作品にとって作者の倫理性は重要か
・ファシリテーター:古賀琢磨
・開催方法:ZOOMミーティング (URLは、参加申込をされた方にお知らせします。)
・日 時 :2021年8月7日(土)15:00~18:00(ミーティングルームへの入室:14:50~)
・参加費 :無料
・申込み :こくちーずから申し込みをお願いします。
      (クリックすると申込画面へ移動します。)

私たちは日頃、文学書、哲学書、絵画、音楽など、さまざまな作品と接しています。自ら進んで接する人も多いでしょうし、作品のほとんどを知っているお気に入りの作者や尊敬している作者がいる人も少なくはないでしょう。

それではもしその作者が、倫理や法に反することをした場合、作者の作品は社会においてどのように扱われるべきでしょうか。さしあたり、3つの立場が考えられます。

一つ目は、作者が倫理や法という社会のルールに反する行為をしたのだから、作品も社会的な制裁を受けるべきとする立場です。そのためこの立場では、例えば音楽家が法に反することをした場合には、配信を止めることになる可能性があります。

二つ目は、作者が行った倫理的・法的に問題のある行為の内容に応じて、対応を変えるというものです。この立場で問題になるのは、どのような内容であれば結びつけて考えるべきであり、どのような内容であれば結びつけるべきではないのかということです。

最後の立場は、作者と作品を切り離し、作品自体に罪はないとする立場です。そのため作者が罪に問われることがあったとしても、社会に受け入れられてきた作品の扱いを変えるべきではないということになります。

みなさんはどの立場に、どのような理由で与するでしょうか。あるいは、これらとは別の立場があるでしょうか。今回は、作者との関わりを通じて、作品との向き合い方について考えてみたいと思います。