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こんにちは。世話人の堂囿です。
次回のテーマをお知らせします。

テーマ:謝ること、赦すこと――どうして謝るのか、どうすれば赦されるのか
ファシリテーター:小田透
日時:2020年2月1日(土)
15:00~18:00(14:30~受付&テーブルトーク)
場所:スノドカフェ七間町(静岡県静岡市葵区七間町7-8)
参加費:一般1,000円,学生500円(フリードリンク・お菓子付)
申込み:不要

哲学カフェ第6回では、参加者のみなさんの個人的・具体的な謝罪や和解の経験を出発点としながら、謝ることと赦することについて、哲学的に考えてみたいと思います。

わたしたちはもしかするとクレーマー社会に生きているのかもしれません。不良品や粗悪品を売りつけられれば、そんなものを売った側を糾弾する。反社会的行動を犯した者は、容赦なく徹底的に叩きのめす。不適当な謝罪が「炎上」を引き起こし、バッシングがさらに加熱することも珍しくありません。画像や映像がまたたくまにインターネットに拡散する現代において、謝罪をはっきりと目に見えるようにすることはきわめて重要です。

しかし、厄介ごとを避けるために行われる戦略的な謝罪は、本当に謝罪なのでしょうか。
そこで加害者の意図は解き明かされるでしょうか。加害行為にたいする真摯な反省があるでしょうか。謝ることが、説明責任を果たすことや、後悔や改心を示すことと無関係であってよいのでしょうか。

しかし、加害者が正直に告白し、本心から改心したら、すべて解決したことになるのでしょうか。
被害者のこうむった被害はどうなるでしょう。なるほど、金銭に換算できる損害なら、金銭的に埋め合わせることができるかもしれません。しかし、心の傷や体の傷はどうでしょうか。人の命はどうでしょうか。どのような謝罪をしたところで、どうすることもできない喪失があります。

しかし、元通りにすることも、埋め合わせることもできないからといって、それが、謝らないことの理由になるでしょうか。
謝ることは、謝る側の問題にとどまりません。謝られる側の問題、赦す側の問題があります。謝る人、謝られる人をとりまく第三者の問題もあります。謝ることや赦すことについての社会通念や文化の問題もあります。謝ることは、当事者の問題にとどまるものではありません。

だとすれば、謝ることは、誰にたいして、何のためになされるのでしょうか。すでに起こってしまったことをなかったことにすることは出来ないこの現実世界において、謝ることは赦されることとどのように繋がっているのでしょうか。問題を逆側から眺め、次のように問い直してみてもいいかもしれません。わたしたちが赦すとき、誰を、何のために、どのように赦しているのでしょうか。