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次回のテーマをお知らせします。

テーマ 「なぜわたしたちは他人の熱意に引くのか?」
開催日    8月6日(土)
時間     15:00~18:00(受付開始:14:50~)
場所     Zoomミーティング(URLは参加申込をされた方にお知らせします)
参加費    無料
申込み こくちーず(クリックすると申込画面へ移動します)

自分の思いの丈を熱く他人に語って引かれてしまうというやらかし体験は、誰しも一度くらいはあるのではないでしょうか。または、他人の熱い語りを聞かされて思わず引いてしまった経験はないでしょうか。
内容に直感的に引いてしまうというのはあるかもしれません。
たとえば、法に触れるような犯罪行為について熱弁を振るわれたら、生理的な嫌悪を覚えるのは当然でしょう。自分が全く知らないこと、興味がないこと——アイドルであるとか、釣りであるとか——のことを熱弁されたら、白けるばかりか、生暖かい対応をしてしまうでしょう。なんとなく聞き知ってはいるものの他人事としか思えない事柄——たとえば、所縁もない遠い国での不幸な出来事——を力説されたら、反応に困り、裏があるのかと邪推し、距離を取ってしまうかもしれません。
しかし、わたしたちが興味関心をもってしかるべきこと、わたしたちみんなに関わること、自分事として受け入れられるかもしれないこと——たとえば地方選挙であるとか、リニア工事であるとか、地球環境——であったとしても、同じように引いてしまうのではないでしょうか。
では、これは、誰が熱く語るのかという問題でしょうか。
さて、どうでしょう。内容的には真っ当なことを、信頼を寄せる知人友人が、圧倒的な熱量をもって語りかけてきたときのわたしたちの最初の反応は、共感ではなく、困惑ではないでしょうか。もしかすると、冷や水をかけるような応対ですらあるかもしれません。しかも、悪意ではなく、善意から。たとえば、親戚の子どもがあきらかに先行き困難な将来を熱っぽく語り出したら、その子の真摯な思いに共感するよりも、冷静に諭すような現実的な言葉を投げかけてしまうのではないでしょうか。そればかりか、子どもの熱意それ自体を冷やすような言葉を浴びせてしまいがちではないでしょうか。
なぜわたしたちはそのような醒めた反応をしてしまうのでしょうか。なぜわたしたちは、他者の熱意を真正面から受けとめるのではなく、それをいなしたり、斜に構えた態度をとってしまったりするのでしょうか。なぜ熱い共感ではなく、生暖かい視線が、わたしたちのデフォルトのスタンスになりがちなのでしょうか。次回の哲学カフェでは、他者との関係における温度差の問題について考えてみたいと思います。(文責・ファシリテーター:小田透)