次回のテーマをお知らせします。
・テーマ :生き物はなぜ殺されてもいいのか
・開催方法:ZOOMミーティング(URLは、参加申込をされた方にお知らせします)
・日 時 :2021年10月2日(土)15:00~18:00(ミーティングルームへの入室:14:50~)
・参加費 :無料
・申込み :こくちーずから申し込みをお願いします(クリックすると申込画面へ移動します)
先日見慣れない鮭の切り身がバターで炒められテーブルに並べられていました。魚体を輪切りにした厚みは15ミリ程のもので、これがあまりおいしくない。身が細かく崩れ、小骨は中に散在し、口に含むたびに骨を探して取り除く作業を強いられます。この見慣れぬ鮭の切り身はどのような方法で輪切りにされたのか?そんな疑問が浮かびます。真横から一気に切られたと思われるその姿を見ていると、機械的に、強力な力と驚くほどの鋭利さで速やかに処理されたのではないかと想像してしまいました。
これをわたし自身におきかえて考えてみることを試みます。わたしはある大きな養殖場の生簀の中でのびのびと仲間たちと毎日を過ごしています。大勢の仲間との生活は少し窮屈を感じることはあるのだけれど、空腹を感じたことはなかったし、淋しさもなく、恐怖を感じたこともない。そんな日常を大きな不満を持つことなく過ごす。4年ほど経つと兄妹たちが少しずつ見かけられなくなり、どうしているのか気にかけていると突然水から取り揚げられ、一切呼吸が出来なくなり、恐怖が全身を黒く覆うのだけど、そのまま意識を失ってしまった。それまで。意識のないままわたしは機械で細かく切断され、包まれ、運ばれ、売られ、調理され、人間に食われる。平穏で不満なく過ごし、恐怖と苦しみは一瞬、痛みを感じることもなく生を終えるのだけど、魚の生命をこのように扱うことは正しいことと言えるのだろうか。
今回は「輪切りの鮭」の見慣れなさをきっかけに想像を膨らませてみましたが、食事はわたしたちが生き物の利用を考える場合のごく身近な機会といえるでしょう。このような食事の例に限らず、動物は人間の欲求に応じて様々な形で利用されています。食用や観賞用、ペットなど目に見える形での利用や、研究・実験、その成果物など目に見えない形でも利用されています。今回はそのなかで最も厳しい利用の形である「動物の生命の利用」に焦点を当て、わたしたちが動物の生命を奪ってよいとする正当性の根拠を、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。(文責・ファシリテーター:秋野晋一)