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各回の解題(第1回~第10回)

第1回 受精卵の遺伝子を操作することは許されるか?

昨年末、中国の研究者が、生まれる子どもがHIVに感染しないように受精卵の遺伝子を操作し、実際に子どもが生まれたことを明らかにしました。この行為に対しては、「実験段階の技術を応用するのは問題だ」といった安全性の問題や、「より安全な方法でHIVを回避することは可能だ」という必要性に関する疑問が呈されました。確かに、安全かどうか分からず、必要でもない操作を行うことには大きな問題がありそうです。

しかし、安全性の問題は、やがて解決される可能性があります。そのとき私たちは、受精卵の遺伝子操作とどのように向き合うべきでしょうか。

一つ目の考え方は、安全であるなら後は親の選択に任せるというものです。親は子育てに関してかなりの決定権をもっています。子どもの遺伝子を編集することも、基本的にはそうした決定権に含まれると考えられるかも知れません。

二つ目の考え方は、一定の条件下で利用を認めるというものです。というのも、そうした条件によって、遺伝子操作によって生じうる問題を回避できるかもしれないからです。例えば、親の選択に任せていては、操作によって有利な能力を身につけた子どもと、操作なしに生まれた子どもとの間に格差が生まれることになってしまうかもしれません。

三つ目の考え方は、いかなる形であれ受精卵の遺伝子操作は認めないというものです。この立場は、「神への冒涜」といった宗教的な背景から訴えられることもあれば、「受精卵の操作は未来世代にも影響を与えるのであり、そうした影響を知るのは困難である」という予防的な配慮にもとづくこともあります。

もちろんこれら三つ以外の立場もありえますし、別の理由から上に挙げた立場に賛成することもできるでしょう。初回のしずおか哲学caféでは、みなさんとともに、将来世代の遺伝子操作について考えてみたいと思います。


第2回 家族とは何か?

「家族」は望ましいものとして語られることがあります。家族旅行は、子どもに多くの体験をさせてくれるでしょう。家族の間では見返りのない支え合いが行われることが多々あります。子を産み育て、介護や看護を必要とする人を支えるに止まらないかもしれません。単に「ただ家族がいる」ということが安心感をもたらす可能性はあります。

こうした「望ましい家族」は、しばしば、父親、母親、子ども、祖父母からなる家族と結びつけられます。しかし家族の形はもっと色々なものがあっても良いと考える人たちもいます。世界的には、同性婚が広まりつつあります。三人婚が許されている国もあります。結婚せずに精子提供を受けて産んだ子どもと母親の家族という形もありうるでしょう。あるいは映画『万引き家族』のように、性愛も血縁関係もない家族だってありえます。

その一方で、制度の上でも、意識の上でも、家族の形はかなり限定されています。そうした限定に何らかの意味はあるのでしょうか。むしろそうした限定は恣意的であり、もっと多様な家族も受け入れるべきでしょうか。しかし、多様なものを家族として認めた時、そもそも家族の本質とは何なのでしょうか。

私たちは、多くの人に家族がいることを前提とした社会の中で暮らしています。しかし、そもそも、家族とは何なのか、はっきりと答えられるでしょうか。血の繋がりをもとにしたつながり?子どもを産むための仕組み?愛によって結ばれた関係?共依存の当事者たち?助け合う特別な仲間?やらなきゃいけないことを増やすしがらみ?かけがえのないもの?お金を払えば代わりがあるもの?

今回は、多様な家族の可能性を検討することを通じて、家族とは何かをみなさんとともに考えたいと思います。


第3回 私の意思は本当に私の意思なのか

自分の考えは、自身の様々な経験を基に作られます。つまり私の考えはさまざまなものによって影響されているのです。特に、親や教師など、成長するなかで強い影響を与えた人の考えを、あたかも自分の考えであるように思い込んでいる可能性は大きいと言えるでしょう。

例えば高校や大学に進学したのは、教師や親が「良し」とするものを「良し」としているに過ぎないかもしれないのです。しかしこのようには考えず、やはり進学するかどうかは自分で決めたと考えている人もいると思います。「私の決定は結局のところ他人の考えを反映したものにすぎない」「私の決定は私自身が決めたものだ」、これら二つの立場の間には、どのような違いがあるのでしょうか。これらの違いが分かれば、どのような状態であれば、自分の意思と言えるのかが見えてくるかもしれません。

そこで今回の哲学caféでは、次のようなステップで進めていきたいと思います。

1. これは自分で決めた、と言えることにはなにがあるか。また、それはなぜか。
2. これは他人の意思が決めた、と言えることはなにがあるか。また、それはなぜか。
3. どういう状況・状態であれば、それは私が決めたと言えるか。


第4回 人の心の内をどこまで推し量れるのか

私たちは、他者と生活を共にしています。共に生活を営む以上、他者に配慮することが求められます。特に社会的な生活の場、例えば学校や仕事の場では、他者の心情を正しく推量し、適切に行為することが推奨されます。社会人ならば、職種にもよるでしょうが、他者に「気を使う」ことは必須の技能であるように思われます。学校でも、他者への配慮は、まさしく「生き残る」ためにはなくてはならないスキルとなっているのではないでしょうか。

他者への配慮には、その心の内を推し量ることが必要です。ですが、ご承知のとおり他者の心は目に見えません。そのような目には見えないものを、私たちは推し量って行為し、そしてある程度までは成功しているようなのです。

ここで、「ようなのです」、という言葉を使うのは、他者の心が見えない以上、私たちが正しく相手の心の内を推量できているかどうか、不明だからです。たいていの場合、相手が怒り出したり、不機嫌にならないことを以って私たちは相手の心情を害していないことを判断したりしています。その反対もまた然りでしょう。

いずれにせよ、目に見えない他者の心について、その都度判断を下しながら私たちは生活しています。ですが、他者のこころはいつまでも謎のまま残されています。このことについて、以下の問から、他者の心について考えてみたいと思います。

① あなたは他者の心にどのように配慮していますか。
② あなたが他者の心に正しく配慮できたと思ったのはどのようなときですか?また、それはなぜですか?
③ 他者の心の内をどこまで推し量れるのか。


第5回 尊厳とはなにか?

「尊厳」とは一体どのような概念なのでしょう。この言葉とその概念、わたしたちが日常、触れる機会があるとすれば「安楽死・尊厳死」を扱う記事でしょうか。あるいは大きな事件、例えば2016年7月26日に起こった「相模原障害者施設殺傷事件」を振り返った時でしょうか。あるいはもっと私的な、あなたが家族や大切な人を想った時に感じるものなのでしょうか。いずれの場合であっても、なにか特別な状況で使われる言葉のような気がします。

『尊厳とは、わたしたち人間に皆等しく備わっているものであり、それは決して他者からは侵されてはならない私的な領域』のような気がします。それはなんとなく理解できる。けれども、そのように広く、分け隔てなくわたしたちに備わるのはなぜなのでしょうか。また、どういった理由で強力に守られなければならないのでしょう。さらにこんな疑問も生まれます。「尊厳」というものは、はたして人間以外の「生きもの」には認められないものなのでしょうか。そして「もの」には「尊厳」は認められないものなのでしょうか。

当日はどこか捉えにくいこの「尊厳」という概念をなるべく具体的に、そしてなるべく平易な言葉で検討したいと考えています。みなさんからの知恵と経験によってつくられているカフェです。ぜひともご参加ください!


第6回 謝ること、赦すこと――どうして謝るのか、どうすれば赦されるのか

哲学カフェ第6回では、参加者のみなさんの個人的・具体的な謝罪や和解の経験を出発点としながら、謝ることと赦することについて、哲学的に考えてみたいと思います。

わたしたちはもしかするとクレーマー社会に生きているのかもしれません。不良品や粗悪品を売りつけられれば、そんなものを売った側を糾弾する。反社会的行動を犯した者は、容赦なく徹底的に叩きのめす。不適当な謝罪が「炎上」を引き起こし、バッシングがさらに加熱することも珍しくありません。画像や映像がまたたくまにインターネットに拡散する現代において、謝罪をはっきりと目に見えるようにすることはきわめて重要です。

しかし、厄介ごとを避けるために行われる戦略的な謝罪は、本当に謝罪なのでしょうか。
そこで加害者の意図は解き明かされるでしょうか。加害行為にたいする真摯な反省があるでしょうか。謝ることが、説明責任を果たすことや、後悔や改心を示すことと無関係であってよいのでしょうか。

しかし、加害者が正直に告白し、本心から改心したら、すべて解決したことになるのでしょうか。
被害者のこうむった被害はどうなるでしょう。なるほど、金銭に換算できる損害なら、金銭的に埋め合わせることができるかもしれません。しかし、心の傷や体の傷はどうでしょうか。人の命はどうでしょうか。どのような謝罪をしたところで、どうすることもできない喪失があります。

しかし、元通りにすることも、埋め合わせることもできないからといって、それが、謝らないことの理由になるでしょうか。
謝ることは、謝る側の問題にとどまりません。謝られる側の問題、赦す側の問題があります。謝る人、謝られる人をとりまく第三者の問題もあります。謝ることや赦すことについての社会通念や文化の問題もあります。謝ることは、当事者の問題にとどまるものではありません。

だとすれば、謝ることは、誰にたいして、何のためになされるのでしょうか。すでに起こってしまったことをなかったことにすることは出来ないこの現実世界において、謝ることは赦されることとどのように繋がっているのでしょうか。問題を逆側から眺め、次のように問い直してみてもいいかもしれません。わたしたちが赦すとき、誰を、何のために、どのように赦しているのでしょうか。


第7回 受精卵の遺伝子を操作することは許されるか?

*この回は、ZOOMでの哲学カフェの可能性を探るため、第1回と同じテーマを扱いました。


第8回 本当に知るとはどういうことか?

*この回は、解題を用意せずに実施しました。


第9回 なぜ自粛するのか?

新型コロナウイルスの蔓延により、私たちの生活は一変しました。その筆頭が外出などの「自粛」ではないでしょうか。緊急事態宣言を大きな契機とし、私たちは、出勤や外出など、あらゆるものを自粛してきました。緊急事態宣言解除後も、幾ばくかの活動は再開されたものの、なんらかの形で自粛を継続している方も多いことと思います。その一方で、自粛せずに外出している人も増えてきているようにも思います。また新たに感染してしまった人を横目に、「なんで自粛しないんだ」と、つい思ってしまう人もいるのではないでしょうか。

しかし、そもそも私たちは、なぜ自粛をし、自粛を是としているのでしょう。自らの意思で、自らを律し、自分自身の行動の自由を、自らが制限しようとすることは、本来は強い意志の下に行われることと思いますが、今現状は、果たしてそうなのでしょうか。私たちに自粛を強いているものは何なのでしょうか。

なぜ自粛をするのかを考えた結果、最終的に自粛すべきだという結論に至るとしても、私は立ち止まってその理由を考えたいと思いました。一度立ち止まって、一緒に考えて見ませんか。


第10回 なぜわたしたちは助けを必要としている存在を助けないのか?

コロナ禍で助けを求める声を聞く機会が増えました.新型コロナウイルスを起因とした苦境を理由に,医療業界や観光業界,外食等の個店,個人等が助けを求める声を上げています.その声の裏に,助けを求めたくとも声を上げることの出来ない存在がいることは想像に難くありません.

助けを必要としている存在がいる.わたしたちは助けるか,助けないか,判断を迫られます.そして,助けない,と決断する時があります.では,なぜわたしたちは助けを必要としている存在を助けないのでしょうか.

ここで念頭に置いている「助け」とは,金銭などの面で活動や事業を助ける「支援」,励ましのような間接的な助けと相手の行為の一部を担う「応援」や「扶助」,更には,助ける側が意図せずとも助けられる側が助けと認識する,何気ない挨拶等の精神的な「救い」など,多義的に用いています.

今回のしずおか哲学caféは「助け」について考えたいと思います.