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各回の解題(第11回~第20回)

第11回 「生きづらさ」は何によって生まれるのか?

「生きづらさ」を感じる場面というのは色々ありそうです。

誰が聞いても深刻な課題を抱えている人もいれば、人によっては深刻と感じられないことに生きづらさを感じている人もいるでしょう。しかも「生きづらさ」を生み出しているものは、深夜まで残業せざるをえない、結婚できない、友達がいない、趣味がないなど、実にさまざまです。人によって、生きづらさには色々な形があると思います。

そこで今回は、参加者のみなさんと、「自分自身がどのような時に生きづらいと感じたか」、「どのように生きづらいと思えてしまうのか」について話をしてみたいと思います。皆さんがそれぞれ抱えている「生きづらさ」とその「感覚」について、「なぜ、それが生きづらいと感じるようになってしまったか」を一緒に考え、生きづらさが生まれる多様な様相を共有するのが目的です。「生きづらさ」が話題になると、どうしても生きづらさの「解消」「解決」に目が行きがちですが、生きづらさそのものに目を向けることが、解決の第一歩でもあるはずです。

参加する皆さんが日々の暮らしで遭遇する「生きづらさ」とその原因について、ゆっくりと考えていきましょう。


第12回 わたしたちは効率化と〈うまく〉付き合えるのか?

私事ではありますが先日わたしの母方の祖母が亡くなりました。90歳でした。母親の故郷は遠方であるのと時勢もあり、孫たちは集まることなく、両親、叔父、叔母とごく数人で小さな葬儀が執り行われました。

飛行機で発った両親が葬儀で忙しくしている間、残ったわたしといえば、日常に忙殺されていました。返事の難しいメールを送り終え、西の空を眺めた時、祖母が亡くなってから三日の間、祖母との記憶を全く振り返っていないことに気付きました。

きっとみなさんも忙しい毎日を過ごしておられるでしょう。学業であったり仕事であったり、家庭のことであったり、こなさなければならない何かが毎日押し寄せてくる日々ではないでしょうか。

そんな只中だからわたしたちは常に効率的であることを求められる。作業や行動には必ず「効率的」であることを、自分自身に求め、他者からも求められます。しかし、その結果として、私たちは何か大切なものを見失っているのかもしれません。みなさんは日常生活のありとあらゆるものに染み込んでいる効率化というものをどのように捉え、考えていますか?

2月のしずおか哲学カフェ(zoom版)のテーマは「わたしたちは効率化と〈うまく〉付き合えるのか?」です。みなさんの参加をお待ちしています。


第13回 「成長」とは何か

何かを知ること、できるようになることは何かが増えることです。たとえばWikipediaを読めば、さまざまな事の「知識」を得ることができます。また、直接何かを「経験」して、何かができるようになることは、「スキル」が上がることとして「成長」の実感につながります。このように、基本的に「成長」はプラスの経験をすることによって実感されるように思います。

しかし、一方では、ある程度ものごとを知って、「成長」してしまうことで、自分が実は何も分かっていないことや、何もできないことを思い知ってしまい、自信を失ってしまうこともあります。あるいは、知る、できることを楽しむ気持ちを忘れてしまう、駆け出しのころのがむしゃらな熱意や情熱が損なわれてしまう。そのような体験をした方もいるかもしれません。

今回は、このような側面にも目配りしつつ、みなさんの「成長」の経験を出発点にしながら、成長とは何か、知ることやできるようになることは何を意味するのかをめぐって対話を進めていきたいと思います。


第14回 本心で振る舞うことは必要か

私たちは、大なり小なり本心を隠して生きているのではないでしょうか。特に仕事をする上では、社会性を身につけた、当たり障りのない、良い人間を演じることは、推奨されています。ですから私たちは、レストランの店員はこうあるべき、医者とはこうあるべき、彼女とはこうあるべきといった、それ相応の振る舞いに応じるとともに、他者に対してもそうした振る舞いを求めます。

確かに、すべてをさらけ出すよりも、社会的義務や役割を優先したほうが、物事は円滑に進みますし、周囲との無用な軋轢を招く危険もありません。しかし、社会の要請に従順でありつづけると、自分の本心がわからなくなってしまうという危険はないでしょうか。また、本心と違う振る舞いを続けることで、罪悪感を感じることもあるかもしれません。そうだとすれば、社会的な役割を演じつつ、自分自身の声を聞き、自分に正直に生きる必要があるのかもしれません。

今回は、「自分自身の声を聞き、自分に正直に生きる必要があるのか」という問いを、みなさん自身が経験されたエピソードもうかがいながら、一緒に考えてみたいと思います。


第15回 作品にとって作者の倫理性は重要か

私たちは日頃、文学書、哲学書、絵画、音楽など、さまざまな作品と接しています。自ら進んで接する人も多いでしょうし、作品のほとんどを知っているお気に入りの作者や尊敬している作者がいる人も少なくはないでしょう。

それではもしその作者が、倫理や法に反することをした場合、作者の作品は社会においてどのように扱われるべきでしょうか。さしあたり、3つの立場が考えられます。

一つ目は、作者が倫理や法という社会のルールに反する行為をしたのだから、作品も社会的な制裁を受けるべきとする立場です。そのためこの立場では、例えば音楽家が法に反することをした場合には、配信を止めることになる可能性があります。

二つ目は、作者が行った倫理的・法的に問題のある行為の内容に応じて、対応を変えるというものです。この立場で問題になるのは、どのような内容であれば結びつけて考えるべきであり、どのような内容であれば結びつけるべきではないのかということです。

最後の立場は、作者と作品を切り離し、作品自体に罪はないとする立場です。そのため作者が罪に問われることがあったとしても、社会に受け入れられてきた作品の扱いを変えるべきではないということになります。

みなさんはどの立場に、どのような理由で与するでしょうか。あるいは、これらとは別の立場があるでしょうか。今回は、作者との関わりを通じて、作品との向き合い方について考えてみたいと思います。


第16回 生き物はなぜ殺されてもいいのか

先日見慣れない鮭の切り身がバターで炒められテーブルに並べられていました。魚体を輪切りにした厚みは15ミリ程のもので、これがあまりおいしくない。身が細かく崩れ、小骨は中に散在し、口に含むたびに骨を探して取り除く作業を強いられます。この見慣れぬ鮭の切り身はどのような方法で輪切りにされたのか?そんな疑問が浮かびます。真横から一気に切られたと思われるその姿を見ていると、機械的に、強力な力と驚くほどの鋭利さで速やかに処理されたのではないかと想像してしまいました。

これをわたし自身におきかえて考えてみることを試みます。わたしはある大きな養殖場の生簀の中でのびのびと仲間たちと毎日を過ごしています。大勢の仲間との生活は少し窮屈を感じることはあるのだけれど、空腹を感じたことはなかったし、淋しさもなく、恐怖を感じたこともない。そんな日常を大きな不満を持つことなく過ごす。4年ほど経つと兄妹たちが少しずつ見かけられなくなり、どうしているのか気にかけていると突然水から取り揚げられ、一切呼吸が出来なくなり、恐怖が全身を黒く覆うのだけど、そのまま意識を失ってしまった。それまで。意識のないままわたしは機械で細かく切断され、包まれ、運ばれ、売られ、調理され、人間に食われる。平穏で不満なく過ごし、恐怖と苦しみは一瞬、痛みを感じることもなく生を終えるのだけど、魚の生命をこのように扱うことは正しいことと言えるのだろうか。

今回は「輪切りの鮭」の見慣れなさをきっかけに想像を膨らませてみましたが、食事はわたしたちが生き物の利用を考える場合のごく身近な機会といえるでしょう。このような食事の例に限らず、動物は人間の欲求に応じて様々な形で利用されています。食用や観賞用、ペットなど目に見える形での利用や、研究・実験、その成果物など目に見えない形でも利用されています。今回はそのなかで最も厳しい利用の形である「動物の生命の利用」に焦点を当て、わたしたちが動物の生命を奪ってよいとする正当性の根拠を、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。


第17回 愛とは何か

愛とは色々な場面で使用される。歌でも、小説でも、普段の会話の中でも、様々な場面で愛という単語が出てくる。どうやら愛とは様々な側面を持ち、人によって様々な解釈をされているもののようである。

さらに私たちは時々、自分の行動や他人の行動に対して、愛を見出すことがある。例えば、病気の子どもを看病し続ける行為や、恋人にサプライズプレゼントを用意する行為、熱量のこもったアイドルを推す活動、ボランティアの災害救助活動など、関係性も対象も行為も全然違うのに、愛という言葉が使われることがある。そしてそれを、愛と思う人もいれば、愛と思わない人もいる。愛とは一体、何なのだろうか。

愛について立ち止まり考えるために、今回は「受け入れる」という観点から愛を考えてみたい。例えば、注意を聞き入れようと思えたり、喧嘩してでもぶつかろうと思える人もいれば、そうは思えない人もいる。また、面倒をよくみてくれている人からの忠告は従ってみようと思うが、そうではない人の忠告は聞く気になれない。ここに見られる「受容的な態度」と「無関心・反抗的な態度」の違い、この背景にあるものこそ愛なのではないか。今回のファシリテーターはこのように考えている。

そんなものは愛ではないと考える人もいるであろう。そうであれば、どういったものを愛と呼ぶのか、また、それはなぜなのだろうか。様々な場面で使用されているからこそ捉えることが難しくなってしまったようにも思える愛について、参加者とともに紐解いていきたい。


第18回 将来世代に対する責任について考える

国連は、2015年に、2030年までに到達すべき「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals=SDGs)」を定めました。さらに菅前首相は、昨年9月、2050年までに実質的に温室効果ガスの排出をゼロにするというカーボン・ニュートラル宣言を出しました。こうした動きの中で、将来世代のために責任をもって行動しようという機運も高まっているように思われます。

多くの人は、こうした変化を望ましいと考えるでしょう。しかし本当にそうでしょうか。例えばSDGsに対しては、企業などが環境に配慮している<ふり>をするための道具になっており、事態の改善をもたらしてはいないという批判もあります。(こうした<ふり>をすることは、グリーンウォッシュと呼ばれています。)

それでは、グリーンウォッシュを防ぎ、将来世代が人間らしく生きていける環境を実質的に維持するためには、どのような行動が必要なのでしょうか。例えば私たちが、SDGsを掲げる個人や組織が実際に何をしているのか、それによってどのような影響がもたらされているのかをより詳細に調べ、その結果に基づき慎重に行動していくというのはどうでしょう。もちろんこれに対しては、「そもそも自分が出会うことのない人たちのためにそこまでする必要はない」という意見もあるかもしれません。しかし十分な知識にもとづき慎重に行動することが「将来世代への責任」に含まれないのだとしたら、そもそも「将来世代への責任」はどのように果たされるのでしょうか。

今回の哲学カフェでは、広く受け入れられていると思われる「将来世代への責任」について、みなさんとあらためて考えてみたいと思います。


第19回 ルールとは何か

世の中には、多くの(明文化された)ルールがあります。これらは、基本的には「守るべきもの(従うべきもの)」として私たちの前に置かれています。守られないルールは、その意味をなさないでしょう。

ルールは、多くの場合他者との社会生活において定められるものです。私たちが社会を形成して生きている以上、常に何らかのルールに従っていると言えるかもしれません。

しかし、私たちはいつでもどこでも、あらゆるルールに完全に従って生きているというわけではないでしょう。時と場合によって、従ったり従わなかったりしているのではないでしょうか。例えば、「赤信号みんなで渡れば怖くない」という名言(?)があるように、得てして、集団性においてルールは無視されがちです。あるいは、罰則や制裁が過小、ないしは存在しないために、有名無実化しているルールもあるかもしれません。ことによると、どんなに厳罰が科されているとしても、ルールに抵触するようなことが行われることもあるでしょう。単にそれが「ルールである」というだけでは、私たちはルールを守ろう(従おう)とはしないようです。

それではなぜ、私たちはあるルールに従ったり、従わなかったりするのでしょうか。ルールに従ったり、従わなかったりするということで、私たちはいったい何をしているのでしょうか。罰せられることを避けているのでしょうか。または、社会や集団の秩序を維持しようとしているのでしょうか。なぜ、ルールというものが私たちの目の前にあるのでしょうか。私たちにとって、ルールとはいったい何なのでしょうか。


第20回 私たちはなぜ数学に無関心なのか

先日、とある議員が「三角関数はその分野に進む学生にだけ学ばせれば良い」といった旨の発言し、これを巡ってネットでは様々な反応がありました。ここで言われる「三角関数」というものが「数学」の代表例であるとすれば、これは数学についての発言だと考えて良いと思います。日常的に数学に触れている身としては非常に遺憾に思いますが、この発言にどこか賛同できる人がいるだろうということも想像に難くありません。

実際には、三角関数に限らず、わたしたちの世界では数学がなくてはならないものとなっています。三角関数が無ければ電子機器の製造はおろか、建築もできないでしょう。その他にも飛行機を飛ばせるのも、安心して通話できる暗号技術があるのも、明日の天気がわかるのも、その他にもありますが、わたしたちは数学の恩恵によるところが大きいはずです。
にもかかわらず、先述の議員の程ではないにせよ、数学に対して関心をもつ人は多くないようにも思います。歴史を題材にした番組、例えば大河ドラマなどがそうですが、こういったものは非常に関心が向けられています。この他にも美術のドキュメンタリーや、生物が中心となる作品、また、天文学者や化学者などが関心を集めることがあるにしても、数学に同様の関心が向くことは極めて稀だと思います。

以上のような数学の有用性と、数学への無関心のように、なぜ同じ数学に対してこれ程ギャップがあるのでしょうか。数学が馴染みのない言語を使っているためでしょうか。しかし、将棋などのように複雑で理解しづらいものでも、数学以上に関心を集めているものもあります。数学が関心を集めにくい理由があるのでしょうか。

今回は、ファシリテーターが個人的に感じる問題意識から、なぜ多くの人にとって有用であるはずの数学にあまり関心が寄せられないのか、ということをみなさんと議論したいと思います。人類で共有できるはずの数学に対して、このような無理解があるのはなぜなのでしょうか。数学はわたしたちにとってどのような存在なのか、という問いを目指して考えていけたらと思います。