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各回の解題(第21回~第30回)

第21回 なぜわたしたちは他人の熱意に引くのか?

自分の思いの丈を熱く他人に語って引かれてしまうというやらかし体験は、誰しも一度くらいはあるのではないでしょうか。または、他人の熱い語りを聞かされて思わず引いてしまった経験はないでしょうか。

内容に直感的に引いてしまうというのはあるかもしれません。

たとえば、法に触れるような犯罪行為について熱弁を振るわれたら、生理的な嫌悪を覚えるのは当然でしょう。自分が全く知らないこと、興味がないこと——アイドルであるとか、釣りであるとか——のことを熱弁されたら、白けるばかりか、生暖かい対応をしてしまうでしょう。なんとなく聞き知ってはいるものの他人事としか思えない事柄——たとえば、所縁もない遠い国での不幸な出来事——を力説されたら、反応に困り、裏があるのかと邪推し、距離を取ってしまうかもしれません。

しかし、わたしたちが興味関心をもってしかるべきこと、わたしたちみんなに関わること、自分事として受け入れられるかもしれないこと——たとえば地方選挙であるとか、リニア工事であるとか、地球環境——であったとしても、同じように引いてしまうのではないでしょうか。

では、これは、誰が熱く語るのかという問題でしょうか。

さて、どうでしょう。内容的には真っ当なことを、信頼を寄せる知人友人が、圧倒的な熱量をもって語りかけてきたときのわたしたちの最初の反応は、共感ではなく、困惑ではないでしょうか。もしかすると、冷や水をかけるような応対ですらあるかもしれません。しかも、悪意ではなく、善意から。たとえば、親戚の子どもがあきらかに先行き困難な将来を熱っぽく語り出したら、その子の真摯な思いに共感するよりも、冷静に諭すような現実的な言葉を投げかけてしまうのではないでしょうか。そればかりか、子どもの熱意それ自体を冷やすような言葉を浴びせてしまいがちではないでしょうか。

なぜわたしたちはそのような醒めた反応をしてしまうのでしょうか。なぜわたしたちは、他者の熱意を真正面から受けとめるのではなく、それをいなしたり、斜に構えた態度をとってしまったりするのでしょうか。なぜ熱い共感ではなく、生暖かい視線が、わたしたちのデフォルトのスタンスになりがちなのでしょうか。次回の哲学カフェでは、他者との関係における温度差の問題について考えてみたいと思います。


第22回 自己研鑽を良いものだと思うのはなぜか?

自己研鑽という言葉があります。おおむね、自分自身の「こうなりたい」という気持ちに従って、自分自身を変えていくことという意味で使われているのではないでしょうか。心のありようを変えていくことや何か知識を深めたり、技術を身につけたり、感性を豊かにしていくことで自分自身をより良いものにしようとする営みとも言えそうです。そして、それは非常に良いとされることが多いと思います。

そもそも、具体的に自己研鑽とはどのようなものなのでしょうか。

動機という観点で考えてみましょう。自己研鑽の中には、会社や身近な人たちからの期待がきっかけとなっている受動的な自己研鑽があるでしょう。他の人がどう思っているかとは無関係に純粋に自分自身の気持ちから生まれる能動的な自己研鑽があると思われます。

結果という観点で考えてみましょう。何らかの技術を身につけることで、自分の収入が増えることや誰かの役に立つことがあるでしょう。感性を豊かにすることで友人が増えることがあるでしょう。自分や他の人の利益につながっている有益な自己研鑽というものがあると考えられます。一方で、誰の役に立つとも思えない自己研鑽もありえます。

自己研鑽には、非常に多くのものが含まれており、うまく捉えることができないように思えます。

しかし、本人の動機や結果にかかわらず、自己研鑽している姿に感銘を受けることがあります。一方で、お金のためにやっているに過ぎない、とか、何の役にも立たない、と理由をつけて、自己研鑽が評価されないこともあります。

私たちはどのようなものを自己研鑽と感じているのでしょうか。そして、私たちはどうして「良い」と感じるのでしょうか。みんなで考えてみたいと思います。


第23回 情報量の多さは創造性を削ぐか〜異世界転生ものに対する違和感

“異世界転生もの“と呼ばれるジャンルが近年人気を博しています。

“異世界転生もの“では、(様々な設定があることは承知の上ですが、)近代社会の記憶を引き継いで生まれ変わり、異世界にはない知識を活かしながら無双する、ということがあります。

筆者は、その異世界転生の主人公が羨ましく思える時があります。

私たち生きる現実世界では、インターネットが発達しており、かなり多くの情報を手に入れることができます。私たちが一日で知り得る情報量は、平安時代に生きている人の一生分の情報量に匹敵すると言われるほどです。しかし異世界では、基本的にインターネットのような高度な情報網がありませんので、現実世界を生きる人間の方が、圧倒的に情報量を持っています。それゆえに異世界では、他の人がまだ考えてもいない・やっていないことを始めるのは比較的容易なように思います。

しかし現実世界ではそうもいきません。周りの人たちは自分と同じような環境で生きていきているため、持っている情報量の差も、異世界ほどはありません。また自分が普段アクセスしている情報は、同じように他の人もアクセス可能な情報であり、差別化することも難しいです。過去の情報の蓄積から類似事例が豊富に出てくるが故に、他の人がまだ考えてもない・やってもいないということを探すのも一苦労です。

それゆえに、私たちは異世界という“情報共有網が未発達の世界“で新しいことを生み出す状況に惹かれるのかもしれません。それは同時に、現実世界での情報量の多さが、新しいことを生み出すことを阻害している可能性を孕んでいます。
今回の哲学カフェでは、インターネットが普及したことを背景に、得られる情報量が増えたことによる、創造性への影響について考えたいと思います。


第24回 あらためて、将来世代に対する責任について考える

2022年2月に開催された第18回しずおか哲学caféでは、「将来世代に対する責任について考える」というテーマを取り上げました。取り上げた背景には、2015年に国連で合意された「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals=SDGs)」や、カーボンニュートラルに向けた国内外のさまざまな動きの中で、将来世代のために責任をもって気候変動に取り組もうという「世代間倫理」の気運の高まりがありました。

しかし気候変動をめぐる問題では、現代世代への責任、つまり「世代内倫理」も問われています。

昨年末に開催されたCOP27では、すでに生じている「損失と被害(ロス&ダメージ」が問題となりました。世界では、気候変動に対して脆弱な途上国を中心に、甚大な被害が出ています。昨年バングラディシュでは、国土の三分の一が水没しましたし、アフリカでは深刻な干ばつが起きました。いま生きている人々も、気候変動のために苦しんでいるのです。

しかし、気候変動に取り組む理由として挙げられるこれら二つの責任をめぐっては、いくつか考えるべき問いがあります。

一つ目は、現代世代のために気候変動の問題に取り組むことと、生まれていない将来世代のために気候変動の問題に取り組むことの間に違いはあるのかという問いです。例えば、いま干ばつに苦しんでいる人のための支援と、将来その土地に住む人が食料を得られるようにする支援とは異なるかもしれません。

二つ目は、両者の責任を果たすことの間に違いがあるときに、それらは対立するのか、さらには対立を解消するのは可能なのかという問いです。例えば、現在気候変動の被害に遭っている人に支援を行うことは、将来世代への負担につながるかもしれません。
三つ目は、対立の解消が困難であるとき、どちらかを優先する理由はあるのか、あるとしてどのようなものなのかという問いです。例えば、「生まれていない将来世代への責任は現代世代のものほど重くない」という考え方が正当ならば、現代世代への責任を優先する理由になります。

今回は、世代内倫理と世代間倫理という区分を踏まえ、これら3つの問いを検討することを通じて、あらためて将来世代への責任について考えてみたいと思います。


第25回 私たちは効率化によって(何を得て)、何を失っているのか?

最近、タイパという言葉を耳にするようになりました。タイパとはタイムパフォーマンスの略で、コストパフォーマンスのコストを時間に置き換え、費やした時間に対するパフォーマンスの高さを指します。

このタイパを象徴する行動が映像コンテンツを早送りで視聴し、その内容を把握する「倍速視聴」でしょう。時間を節約して「効率的」に知識を得るという観点からは非常に合理的な行動のように思えます。筆者自身も録画した情報番組は、そのような視聴形態をとることが多いですし、大学生はコロナ禍で録画された講義コンテンツを早送り視聴することが一般化しているとも聞きます。

ここまでであれば、タイパや倍速視聴による効率化に対して疑問を持つことは少ないと思います。ただ倍速視聴するコンテンツが、「間」を大事にするドラマだったりしたらどうでしょうか?関連して筆者が若い方と会話したときに驚いたのは、「ミステリーなどのコンテンツを先に結末をネタバレしてから見る。その方が最初からどこが伏線になっているか考えながらみることができて、再度見直す必要がなく効率がよい。」ということでした。ここまでくると何となく引っ掛かりや、違和感を持たれる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

さらにコロナ禍で移動が制約されたことにより、結果的に「効率化」が進んだ面があります。通勤・通学に要する時間や、出張のために長時間移動することがなくなったというのは非常に効率化に寄与したでしょう。筆者自身も出社せず、在宅で業務やオンラインで打合せすることが多くなり、それで仕事上のニーズの大半は満たせているように感じます。ところがここでもリアルで対面することがなくなったことによりつながりが薄くなったと感じますし、対面を経た後でないと、どこか居心地の悪さというかやりにくさを感じます。出張がなくなって、普段なら訪れることのないような、その土地の空気感のようなものを味わえなくなったということも感じます。

いくつか事例を挙げましたが、いずれも確かに時間を効率的に使えるようになり、それを何か他のことに充てられる(ex:新たな知識の獲得)ことはあるでしょう。一方で、上では引っ掛かりや違和感と表現していますが、「効率化」によって何かが失われている感覚も広く共有できるのではないでしょうか?それは、感動や驚き、人とのつながりといった情緒的なものだけなのでしょうか?今回の哲学カフェでは、効率化が私たちにもたらすもの、特に効率化によって失っていることについて考えてみたいと思います。


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