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次回のテーマをお知らせします。

テーマ:本心で振る舞うことは必要か
ファシリテーター:國弘彩
開催方法:ZOOMミーティング(URLは、参加申込をされた方にお知らせします。)
日 時:2021年6月5日(土)15:00~18:00(ミーティングルームへの入室:14:50~)
参加費:無料
申込み:こくちーずから申し込みをお願いします。(クリックすると申込画面へ移動します。)

私たちは、大なり小なり本心を隠して生きているのではないでしょうか。特に仕事をする上では、社会性を身につけた、当たり障りのない、良い人間を演じることは、推奨されています。ですから私たちは、レストランの店員はこうあるべき、医者とはこうあるべき、彼女とはこうあるべきといった、それ相応の振る舞いに応じるとともに、他者に対してもそうした振る舞いを求めます。

確かに、すべてをさらけ出すよりも、社会的義務や役割を優先したほうが、物事は円滑に進みますし、周囲との無用な軋轢を招く危険もありません。しかし、社会の要請に従順でありつづけると、自分の本心がわからなくなってしまうという危険はないでしょうか。また、本心と違う振る舞いを続けることで、罪悪感を感じることもあるかもしれません。そうだとすれば、社会的な役割を演じつつ、自分自身の声を聞き、自分に正直に生きる必要があるのかもしれません。

今回は、「自分自身の声を聞き、自分に正直に生きる必要があるのか」という問いを、みなさん自身が経験されたエピソードもうかがいながら、一緒に考えてみたいと思います。

次回のテーマをお知らせします。

テーマ:「成長」とは何か
ファシリテーター:兒玉虎月
開催方法:ZOOMミーティング(URLは、参加申込をされた方にお知らせします。)
日時:2021年4月3日(土)15:00~18:00(ミーティングルームへの入室:14:50~)
参加費:無料
申込み:こくちーずから申し込みをお願いします。(クリックすると申込画面へ移動します。)

何かを知ること、できるようになることは何かが増えることです。たとえばWikipediaを読めば、さまざまな事の「知識」を得ることができます。また、直接何かを「経験」して、何かができるようになることは、「スキル」が上がることとして「成長」の実感につながります。このように、基本的に「成長」はプラスの経験をすることによって実感されるように思います。

しかし、一方では、ある程度ものごとを知って、「成長」してしまうことで、自分が実は何も分かっていないことや、何もできないことを思い知ってしまい、自信を失ってしまうこともあります。あるいは、知る、できることを楽しむ気持ちを忘れてしまう、駆け出しのころのがむしゃらな熱意や情熱が損なわれてしまう。そのような体験をした方もいるかもしれません。

今回は、このような側面にも目配りしつつ、みなさんの「成長」の経験を出発点にしながら、成長とは何か、知ることやできるようになることは何を意味するのかをめぐって対話を進めていきたいと思います。

世話人の堂囿です。
次回のテーマをお知らせします。

テーマ:わたしたちは効率化と〈うまく〉付き合えるのか?
ファシリテーター:秋野晋一
開催方法:ZOOMミーティング(URLは、参加申込をされた方にお知らせします。)
日時:2021年2月6日(土)15:00~18:00(ミーティングルームへの入室:14:50~)
参加費:無料
申込み:こくちーずから申し込みをお願いします。(クリックすると申込画面へ移動します。)

私事ではありますが先日わたしの母方の祖母が亡くなりました。90歳でした。母親の故郷は遠方であるのと時勢もあり、孫たちは集まることなく、両親、叔父、叔母とごく数人で小さな葬儀が執り行われました。

飛行機で発った両親が葬儀で忙しくしている間、残ったわたしといえば、日常に忙殺されていました。返事の難しいメールを送り終え、西の空を眺めた時、祖母が亡くなってから三日の間、祖母との記憶を全く振り返っていないことに気付きました。

きっとみなさんも忙しい毎日を過ごしておられるでしょう。学業であったり仕事であったり、家庭のことであったり、こなさなければならない何かが毎日押し寄せてくる日々ではないでしょうか。

そんな只中だからわたしたちは常に効率的であることを求められる。作業や行動には必ず「効率的」であることを、自分自身に求め、他者からも求められます。しかし、その結果として、私たちは何か大切なものを見失っているのかもしれません。みなさんは日常生活のありとあらゆるものに染み込んでいる効率化というものをどのように捉え、考えていますか?

2月のしずおか哲学カフェ(zoom版)のテーマは「わたしたちは効率化と〈うまく〉付き合えるのか?」です。みなさんの参加をお待ちしています。

こんにちは。世話人の堂囿です。
次回のテーマをお知らせします。

テーマ:「生きづらさ」は何によって生まれるのか?
ファシリテーター:古賀琢磨
開催方法:ZOOMミーティング(URLは、参加申込をされた方にお知らせします。)
日時:2020年12月5日(土)15:00~18:00(ミーティングルームへの入室:14:50~)
参加費:無料
申込み:こくちーずから申し込みをお願いします。(クリックすると申込画面へ移動します。)

「生きづらさ」を感じる場面というのは色々ありそうです。

誰が聞いても深刻な課題を抱えている人もいれば、人によっては深刻と感じられないことに生きづらさを感じている人もいるでしょう。しかも「生きづらさ」を生み出しているものは、深夜まで残業せざるをえない、結婚できない、友達がいない、趣味がないなど、実にさまざまです。人によって、生きづらさには色々な形があると思います。

そこで今回は、参加者のみなさんと、「自分自身がどのような時に生きづらいと感じたか」、「どのように生きづらいと思えてしまうのか」について話をしてみたいと思います。皆さんがそれぞれ抱えている「生きづらさ」とその「感覚」について、「なぜ、それが生きづらいと感じるようになってしまったか」を一緒に考え、生きづらさが生まれる多様な様相を共有するのが目的です。「生きづらさ」が話題になると、どうしても生きづらさの「解消」「解決」に目が行きがちですが、生きづらさそのものに目を向けることが、解決の第一歩でもあるはずです。

参加する皆さんが日々の暮らしで遭遇する「生きづらさ」とその原因について、ゆっくりと考えていきましょう。

こんにちは。世話人の堂囿です。
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テーマ:なぜわたしたちは助けを必要としている存在を助けないのか?
ファシリテーター:多々良秀典
開催方法:ZOOMミーティング(URLは、参加申込をされた方にお知らせします。)
日時:2020年10月3日(土)15:00~18:00(ミーティングルームへの入室:14:50~)
参加費:無料
申込み:こくちーずから申し込みをお願いします。(クリックすると申込画面へ移動します。)

コロナ禍で助けを求める声を聞く機会が増えました.新型コロナウイルスを起因とした苦境を理由に,医療業界や観光業界,外食等の個店,個人等が助けを求める声を上げています.その声の裏に,助けを求めたくとも声を上げることの出来ない存在がいることは想像に難くありません.

助けを必要としている存在がいる.わたしたちは助けるか,助けないか,判断を迫られます.そして,助けない,と決断する時があります.では,なぜわたしたちは助けを必要としている存在を助けないのでしょうか.

ここで念頭に置いている「助け」とは,金銭などの面で活動や事業を助ける「支援」,励ましのような間接的な助けと相手の行為の一部を担う「応援」や「扶助」,更には,助ける側が意図せずとも助けられる側が助けと認識する,何気ない挨拶等の精神的な「救い」など,多義的に用いています.

今回のしずおか哲学caféは「助け」について考えたいと思います.

こんにちは。世話人の堂囿です。
次回のテーマをお知らせします。

テーマ:尊厳とはなにか?
ファシリテーター:秋野晋一
日時:2019年12月7日(土)
15:00~18:00(14:30~受付&テーブルトーク)
場所:スノドカフェ七間町(静岡県静岡市葵区七間町7-8)
参加費:一般1,000円,学生500円(フリードリンク・お菓子付)
申込み:不要

「尊厳」とは一体どのような概念なのでしょう。この言葉とその概念、わたしたちが日常、触れる機会があるとすれば「安楽死・尊厳死」を扱う記事でしょうか。あるいは大きな事件、例えば2016年7月26日に起こった「相模原障害者施設殺傷事件」を振り返った時でしょうか。あるいはもっと私的な、あなたが家族や大切な人を想った時に感じるものなのでしょうか。いずれの場合であっても、なにか特別な状況で使われる言葉のような気がします。

『尊厳とは、わたしたち人間に皆等しく備わっているものであり、それは決して他者からは侵されてはならない私的な領域』のような気がします。それはなんとなく理解できる。けれども、そのように広く、分け隔てなくわたしたちに備わるのはなぜなのでしょうか。また、どういった理由で強力に守られなければならないのでしょう。さらにこんな疑問も生まれます。「尊厳」というものは、はたして人間以外の「生きもの」には認められないものなのでしょうか。そして「もの」には「尊厳」は認められないものなのでしょうか。

当日はどこか捉えにくいこの「尊厳」という概念をなるべく具体的に、そしてなるべく平易な言葉で検討したいと考えています。みなさんからの知恵と経験によってつくられているカフェです。ぜひともご参加ください!

こんにちは。世話人の堂囿です。
次回のテーマをお知らせします。

テーマ:人の心の内をどこまで推し量れるのか
ファシリテーター:青木孝介
日時:2019年10月5日(土)
15:00~18:00(14:30~受付&テーブルトーク)
場所:スノドカフェ七間町(静岡県静岡市葵区七間町7-8)
参加費:一般1,000円,学生500円(フリードリンク・お菓子付)
申込み:不要

私たちは、他者と生活を共にしています。共に生活を営む以上、他者に配慮することが求められます。特に社会的な生活の場、例えば学校や仕事の場では、他者の心情を正しく推量し、適切に行為することが推奨されます。社会人ならば、職種にもよるでしょうが、他者に「気を使う」ことは必須の技能であるように思われます。学校でも、他者への配慮は、まさしく「生き残る」ためにはなくてはならないスキルとなっているのではないでしょうか。

他者への配慮には、その心の内を推し量ることが必要です。ですが、ご承知のとおり他者の心は目に見えません。そのような目には見えないものを、私たちは推し量って行為し、そしてある程度までは成功しているようなのです。

ここで、「ようなのです」、という言葉を使うのは、他者の心が見えない以上、私たちが正しく相手の心の内を推量できているかどうか、不明だからです。たいていの場合、相手が怒り出したり、不機嫌にならないことを以って私たちは相手の心情を害していないことを判断したりしています。その反対もまた然りでしょう。

いずれにせよ、目に見えない他者の心について、その都度判断を下しながら私たちは生活しています。ですが、他者のこころはいつまでも謎のまま残されています。このことについて、以下の問から、他者の心について考えてみたいと思います。

① あなたは他者の心にどのように配慮していますか。
② あなたが他者の心に正しく配慮できたと思ったのはどのようなときですか?また、それはなぜですか?
③ 他者の心の内をどこまで推し量れるのか。

皆様のご参加、お待ちしています!

こんにちは!世話人の國弘(くにひろ)です。
次回のテーマをお知らせします。

テーマ:私の意思は本当に私の意思なのか
ファシリテーター:國弘彩
日時:2019年8月3日(土)
15:00~18:00(14:30~受付&テーブルトーク)
場所:スノドカフェ七間町(静岡県静岡市葵区七間町7-8)
参加費:一般1,000円,学生500円(フリードリンク・お菓子付)
申込み:不要

自分の考えは、自身の様々な経験を基に作られます。つまり私の考えはさまざまなものによって影響されているのです。特に、親や教師など、成長するなかで強い影響を与えた人の考えを、あたかも自分の考えであるように思い込んでいる可能性は大きいと言えるでしょう。 例えば高校や大学に進学したのは、教師や親が「良し」とするものを「良し」としているに過ぎないかもしれないのです。しかしこのようには考えず、やはり進学するかどうかは自分で決めたと考えている人もいると思います。「私の決定は結局のところ他人の考えを反映したものにすぎない」「私の決定は私自身が決めたものだ」、これら二つの立場の間には、どのような違いがあるのでしょうか。これらの違いが分かれば、どのような状態であれば、自分の意思と言えるのかが見えてくるかもしれません。そこで今回の哲学caféでは、次のようなステップで進めていきたいと思います。

1. これは自分で決めた、と言えることにはなにがあるか。また、それはなぜか。
2. これは他人の意思が決めた、と言えることはなにがあるか。また、それはなぜか。
3. どういう状況・状態であれば、それは私が決めたと言えるか。

皆様のご参加、お待ちしています!

第2回しずおか哲学caféのテーマが決まりました!今回は、「家族とは何か?」というテーマで、みなさんと一緒に考えたいと思います。スノドカフェ でお待ちしております!


第2回しずおか哲学café

テーマ:家族とは何か?
ファシリテーター:古賀琢磨
日時:2019年6月1日(土)
15:00~18:00(14:30~受付&テーブルトーク)
場所:スノドカフェ七間町(静岡県静岡市葵区七間町7-8)
参加費:一般1,000円,学生500円(フリードリンク・お菓子付)
申込み:不要

「家族」は望ましいものとして語られることがあります。家族旅行は、子どもに多くの体験をさせてくれるでしょう。家族の間では見返りのない支え合いが行われることが多々あります。子を産み育て、介護や看護を必要とする人を支えるに止まらないかもしれません。単に「ただ家族がいる」ということが安心感をもたらす可能性はあります。

こうした「望ましい家族」は、しばしば、父親、母親、子ども、祖父母からなる家族と結びつけられます。しかし家族の形はもっと色々なものがあっても良いと考える人たちもいます。世界的には、同性婚が広まりつつあります。三人婚が許されている国もあります。結婚せずに精子提供を受けて産んだ子どもと母親の家族という形もありうるでしょう。あるいは映画『万引き家族』のように、性愛も血縁関係もない家族だってありえます。

その一方で、制度の上でも、意識の上でも、家族の形はかなり限定されています。そうした限定に何らかの意味はあるのでしょうか。むしろそうした限定は恣意的であり、もっと多様な家族も受け入れるべきでしょうか。しかし、多様なものを家族として認めた時、そもそも家族の本質とは何なのでしょうか。

私たちは、多くの人に家族がいることを前提とした社会の中で暮らしています。しかし、そもそも、家族とは何なのか、はっきりと答えられるでしょうか。血の繋がりをもとにしたつながり?子どもを産むための仕組み?愛によって結ばれた関係?共依存の当事者たち?助け合う特別な仲間?やらなきゃいけないことを増やすしがらみ?かけがえのないもの?お金を払えば代わりがあるもの?

今回は、多様な家族の可能性を検討することを通じて、家族とは何かをみなさんとともに考えたいと思います。

第1回しずおか哲学caféのテーマが決まりました!今回は、受精卵に対するゲノム編集について、みなさんと一緒に考えたいと思います。スノドカフェ でお待ちしております!


第1回 しずおか哲学café

テーマ:受精卵の遺伝子を操作することは許されるか?
ファシリテーター:堂囿俊彦
日時:2019年4月6日(土)
15:00~18:00(14:30~受付&テーブルトーク)
場所:スノドカフェ七間町(静岡県静岡市葵区七間町7-8)
参加費:一般1,000円,学生500円(フリードリンク・お菓子付)
申込み:不要

昨年末、中国の研究者が、生まれる子どもがHIVに感染しないように受精卵の遺伝子を操作し、実際に子どもが生まれたことを明らかにしました。この行為に対しては、「実験段階の技術を応用するのは問題だ」といった安全性の問題や、「より安全な方法でHIVを回避することは可能だ」という必要性に関する疑問が呈されました。確かに、安全かどうか分からず、必要でもない操作を行うことには大きな問題がありそうです。

しかし、安全性の問題は、やがて解決される可能性があります。そのとき私たちは、受精卵の遺伝子操作とどのように向き合うべきでしょうか。

一つ目の考え方は、安全であるなら後は親の選択に任せるというものです。親は子育てに関してかなりの決定権をもっています。子どもの遺伝子を編集することも、基本的にはそうした決定権に含まれると考えられるかも知れません。

二つ目の考え方は、一定の条件下で利用を認めるというものです。というのも、そうした条件によって、遺伝子操作によって生じうる問題を回避できるかもしれないからです。例えば、親の選択に任せていては、操作によって有利な能力を身につけた子どもと、操作なしに生まれた子どもとの間に格差が生まれることになってしまうかもしれません。

三つ目の考え方は、いかなる形であれ受精卵の遺伝子操作は認めないというものです。この立場は、「神への冒涜」といった宗教的な背景から訴えられることもあれば、「受精卵の操作は未来世代にも影響を与えるのであり、そうした影響を知るのは困難である」という予防的な配慮にもとづくこともあります。

もちろんこれら三つ以外の立場もありえますし、別の理由から上に挙げた立場に賛成することもできるでしょう。初回のしずおか哲学caféでは、みなさんとともに、将来世代の遺伝子操作について考えてみたいと思います。