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次回のテーマをお知らせします。

テーマ 「愛とは何か」
開催日    12月4日(土)
時間     15:00~18:00(受付開始:14:50~)
場所     Zoomミーティング(URLは参加申込をされた方にお知らせします)
参加費    無料
申込み こくちーず(クリックすると申込画面へ移動します)

愛とは色々な場面で使用される。歌でも、小説でも、普段の会話の中でも、様々な場面で愛という単語が出てくる。どうやら愛とは様々な側面を持ち、人によって様々な解釈をされているもののようである。
さらに私たちは時々、自分の行動や他人の行動に対して、愛を見出すことがある。例えば、病気の子どもを看病し続ける行為や、恋人にサプライズプレゼントを用意する行為、熱量のこもったアイドルを推す活動、ボランティアの災害救助活動など、関係性も対象も行為も全然違うのに、愛という言葉が使われることがある。そしてそれを、愛と思う人もいれば、愛と思わない人もいる。愛とは一体、何なのだろうか。
愛について立ち止まり考えるために、今回は「受け入れる」という観点から愛を考えてみたい。例えば、注意を聞き入れようと思えたり、喧嘩してでもぶつかろうと思える人もいれば、そうは思えない人もいる。また、面倒をよくみてくれている人からの忠告は従ってみようと思うが、そうではない人の忠告は聞く気になれない。ここに見られる「受容的な態度」と「無関心・反抗的な態度」の違い、この背景にあるものこそ愛なのではないか。今回のファシリテーターはこのように考えている。
そんなものは愛ではないと考える人もいるであろう。そうであれば、どういったものを愛と呼ぶのか、また、それはなぜなのだろうか。様々な場面で使用されているからこそ捉えることが難しくなってしまったようにも思える愛について、参加者とともに紐解いていきたい。(文責・ファシリテーター:國弘 彩)

次回のテーマをお知らせします。

・テーマ :生き物はなぜ殺されてもいいのか
・開催方法:ZOOMミーティング(URLは、参加申込をされた方にお知らせします)
・日 時 :2021年10月2日(土)15:00~18:00(ミーティングルームへの入室:14:50~)
・参加費 :無料
・申込み :こくちーずから申し込みをお願いします(クリックすると申込画面へ移動します)

先日見慣れない鮭の切り身がバターで炒められテーブルに並べられていました。魚体を輪切りにした厚みは15ミリ程のもので、これがあまりおいしくない。身が細かく崩れ、小骨は中に散在し、口に含むたびに骨を探して取り除く作業を強いられます。この見慣れぬ鮭の切り身はどのような方法で輪切りにされたのか?そんな疑問が浮かびます。真横から一気に切られたと思われるその姿を見ていると、機械的に、強力な力と驚くほどの鋭利さで速やかに処理されたのではないかと想像してしまいました。

これをわたし自身におきかえて考えてみることを試みます。わたしはある大きな養殖場の生簀の中でのびのびと仲間たちと毎日を過ごしています。大勢の仲間との生活は少し窮屈を感じることはあるのだけれど、空腹を感じたことはなかったし、淋しさもなく、恐怖を感じたこともない。そんな日常を大きな不満を持つことなく過ごす。4年ほど経つと兄妹たちが少しずつ見かけられなくなり、どうしているのか気にかけていると突然水から取り揚げられ、一切呼吸が出来なくなり、恐怖が全身を黒く覆うのだけど、そのまま意識を失ってしまった。それまで。意識のないままわたしは機械で細かく切断され、包まれ、運ばれ、売られ、調理され、人間に食われる。平穏で不満なく過ごし、恐怖と苦しみは一瞬、痛みを感じることもなく生を終えるのだけど、魚の生命をこのように扱うことは正しいことと言えるのだろうか。

今回は「輪切りの鮭」の見慣れなさをきっかけに想像を膨らませてみましたが、食事はわたしたちが生き物の利用を考える場合のごく身近な機会といえるでしょう。このような食事の例に限らず、動物は人間の欲求に応じて様々な形で利用されています。食用や観賞用、ペットなど目に見える形での利用や、研究・実験、その成果物など目に見えない形でも利用されています。今回はそのなかで最も厳しい利用の形である「動物の生命の利用」に焦点を当て、わたしたちが動物の生命を奪ってよいとする正当性の根拠を、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。(文責・ファシリテーター:秋野晋一)

次回のテーマをお知らせします。

・テーマ :作品にとって作者の倫理性は重要か
・ファシリテーター:古賀琢磨
・開催方法:ZOOMミーティング (URLは、参加申込をされた方にお知らせします。)
・日 時 :2021年8月7日(土)15:00~18:00(ミーティングルームへの入室:14:50~)
・参加費 :無料
・申込み :こくちーずから申し込みをお願いします。
      (クリックすると申込画面へ移動します。)

私たちは日頃、文学書、哲学書、絵画、音楽など、さまざまな作品と接しています。自ら進んで接する人も多いでしょうし、作品のほとんどを知っているお気に入りの作者や尊敬している作者がいる人も少なくはないでしょう。

それではもしその作者が、倫理や法に反することをした場合、作者の作品は社会においてどのように扱われるべきでしょうか。さしあたり、3つの立場が考えられます。

一つ目は、作者が倫理や法という社会のルールに反する行為をしたのだから、作品も社会的な制裁を受けるべきとする立場です。そのためこの立場では、例えば音楽家が法に反することをした場合には、配信を止めることになる可能性があります。

二つ目は、作者が行った倫理的・法的に問題のある行為の内容に応じて、対応を変えるというものです。この立場で問題になるのは、どのような内容であれば結びつけて考えるべきであり、どのような内容であれば結びつけるべきではないのかということです。

最後の立場は、作者と作品を切り離し、作品自体に罪はないとする立場です。そのため作者が罪に問われることがあったとしても、社会に受け入れられてきた作品の扱いを変えるべきではないということになります。

みなさんはどの立場に、どのような理由で与するでしょうか。あるいは、これらとは別の立場があるでしょうか。今回は、作者との関わりを通じて、作品との向き合い方について考えてみたいと思います。

次回のテーマをお知らせします。

テーマ:本心で振る舞うことは必要か
ファシリテーター:國弘彩
開催方法:ZOOMミーティング(URLは、参加申込をされた方にお知らせします。)
日 時:2021年6月5日(土)15:00~18:00(ミーティングルームへの入室:14:50~)
参加費:無料
申込み:こくちーずから申し込みをお願いします。(クリックすると申込画面へ移動します。)

私たちは、大なり小なり本心を隠して生きているのではないでしょうか。特に仕事をする上では、社会性を身につけた、当たり障りのない、良い人間を演じることは、推奨されています。ですから私たちは、レストランの店員はこうあるべき、医者とはこうあるべき、彼女とはこうあるべきといった、それ相応の振る舞いに応じるとともに、他者に対してもそうした振る舞いを求めます。

確かに、すべてをさらけ出すよりも、社会的義務や役割を優先したほうが、物事は円滑に進みますし、周囲との無用な軋轢を招く危険もありません。しかし、社会の要請に従順でありつづけると、自分の本心がわからなくなってしまうという危険はないでしょうか。また、本心と違う振る舞いを続けることで、罪悪感を感じることもあるかもしれません。そうだとすれば、社会的な役割を演じつつ、自分自身の声を聞き、自分に正直に生きる必要があるのかもしれません。

今回は、「自分自身の声を聞き、自分に正直に生きる必要があるのか」という問いを、みなさん自身が経験されたエピソードもうかがいながら、一緒に考えてみたいと思います。

次回のテーマをお知らせします。

テーマ:「成長」とは何か
ファシリテーター:兒玉虎月
開催方法:ZOOMミーティング(URLは、参加申込をされた方にお知らせします。)
日時:2021年4月3日(土)15:00~18:00(ミーティングルームへの入室:14:50~)
参加費:無料
申込み:こくちーずから申し込みをお願いします。(クリックすると申込画面へ移動します。)

何かを知ること、できるようになることは何かが増えることです。たとえばWikipediaを読めば、さまざまな事の「知識」を得ることができます。また、直接何かを「経験」して、何かができるようになることは、「スキル」が上がることとして「成長」の実感につながります。このように、基本的に「成長」はプラスの経験をすることによって実感されるように思います。

しかし、一方では、ある程度ものごとを知って、「成長」してしまうことで、自分が実は何も分かっていないことや、何もできないことを思い知ってしまい、自信を失ってしまうこともあります。あるいは、知る、できることを楽しむ気持ちを忘れてしまう、駆け出しのころのがむしゃらな熱意や情熱が損なわれてしまう。そのような体験をした方もいるかもしれません。

今回は、このような側面にも目配りしつつ、みなさんの「成長」の経験を出発点にしながら、成長とは何か、知ることやできるようになることは何を意味するのかをめぐって対話を進めていきたいと思います。

世話人の堂囿です。
次回のテーマをお知らせします。

テーマ:わたしたちは効率化と〈うまく〉付き合えるのか?
ファシリテーター:秋野晋一
開催方法:ZOOMミーティング(URLは、参加申込をされた方にお知らせします。)
日時:2021年2月6日(土)15:00~18:00(ミーティングルームへの入室:14:50~)
参加費:無料
申込み:こくちーずから申し込みをお願いします。(クリックすると申込画面へ移動します。)

私事ではありますが先日わたしの母方の祖母が亡くなりました。90歳でした。母親の故郷は遠方であるのと時勢もあり、孫たちは集まることなく、両親、叔父、叔母とごく数人で小さな葬儀が執り行われました。

飛行機で発った両親が葬儀で忙しくしている間、残ったわたしといえば、日常に忙殺されていました。返事の難しいメールを送り終え、西の空を眺めた時、祖母が亡くなってから三日の間、祖母との記憶を全く振り返っていないことに気付きました。

きっとみなさんも忙しい毎日を過ごしておられるでしょう。学業であったり仕事であったり、家庭のことであったり、こなさなければならない何かが毎日押し寄せてくる日々ではないでしょうか。

そんな只中だからわたしたちは常に効率的であることを求められる。作業や行動には必ず「効率的」であることを、自分自身に求め、他者からも求められます。しかし、その結果として、私たちは何か大切なものを見失っているのかもしれません。みなさんは日常生活のありとあらゆるものに染み込んでいる効率化というものをどのように捉え、考えていますか?

2月のしずおか哲学カフェ(zoom版)のテーマは「わたしたちは効率化と〈うまく〉付き合えるのか?」です。みなさんの参加をお待ちしています。

こんにちは。世話人の堂囿です。
次回のテーマをお知らせします。

テーマ:「生きづらさ」は何によって生まれるのか?
ファシリテーター:古賀琢磨
開催方法:ZOOMミーティング(URLは、参加申込をされた方にお知らせします。)
日時:2020年12月5日(土)15:00~18:00(ミーティングルームへの入室:14:50~)
参加費:無料
申込み:こくちーずから申し込みをお願いします。(クリックすると申込画面へ移動します。)

「生きづらさ」を感じる場面というのは色々ありそうです。

誰が聞いても深刻な課題を抱えている人もいれば、人によっては深刻と感じられないことに生きづらさを感じている人もいるでしょう。しかも「生きづらさ」を生み出しているものは、深夜まで残業せざるをえない、結婚できない、友達がいない、趣味がないなど、実にさまざまです。人によって、生きづらさには色々な形があると思います。

そこで今回は、参加者のみなさんと、「自分自身がどのような時に生きづらいと感じたか」、「どのように生きづらいと思えてしまうのか」について話をしてみたいと思います。皆さんがそれぞれ抱えている「生きづらさ」とその「感覚」について、「なぜ、それが生きづらいと感じるようになってしまったか」を一緒に考え、生きづらさが生まれる多様な様相を共有するのが目的です。「生きづらさ」が話題になると、どうしても生きづらさの「解消」「解決」に目が行きがちですが、生きづらさそのものに目を向けることが、解決の第一歩でもあるはずです。

参加する皆さんが日々の暮らしで遭遇する「生きづらさ」とその原因について、ゆっくりと考えていきましょう。

こんにちは。世話人の堂囿です。
次回のテーマをお知らせします。

テーマ:なぜわたしたちは助けを必要としている存在を助けないのか?
ファシリテーター:多々良秀典
開催方法:ZOOMミーティング(URLは、参加申込をされた方にお知らせします。)
日時:2020年10月3日(土)15:00~18:00(ミーティングルームへの入室:14:50~)
参加費:無料
申込み:こくちーずから申し込みをお願いします。(クリックすると申込画面へ移動します。)

コロナ禍で助けを求める声を聞く機会が増えました.新型コロナウイルスを起因とした苦境を理由に,医療業界や観光業界,外食等の個店,個人等が助けを求める声を上げています.その声の裏に,助けを求めたくとも声を上げることの出来ない存在がいることは想像に難くありません.

助けを必要としている存在がいる.わたしたちは助けるか,助けないか,判断を迫られます.そして,助けない,と決断する時があります.では,なぜわたしたちは助けを必要としている存在を助けないのでしょうか.

ここで念頭に置いている「助け」とは,金銭などの面で活動や事業を助ける「支援」,励ましのような間接的な助けと相手の行為の一部を担う「応援」や「扶助」,更には,助ける側が意図せずとも助けられる側が助けと認識する,何気ない挨拶等の精神的な「救い」など,多義的に用いています.

今回のしずおか哲学caféは「助け」について考えたいと思います.

こんにちは。世話人の堂囿です。
次回のテーマをお知らせします。

テーマ:尊厳とはなにか?
ファシリテーター:秋野晋一
日時:2019年12月7日(土)
15:00~18:00(14:30~受付&テーブルトーク)
場所:スノドカフェ七間町(静岡県静岡市葵区七間町7-8)
参加費:一般1,000円,学生500円(フリードリンク・お菓子付)
申込み:不要

「尊厳」とは一体どのような概念なのでしょう。この言葉とその概念、わたしたちが日常、触れる機会があるとすれば「安楽死・尊厳死」を扱う記事でしょうか。あるいは大きな事件、例えば2016年7月26日に起こった「相模原障害者施設殺傷事件」を振り返った時でしょうか。あるいはもっと私的な、あなたが家族や大切な人を想った時に感じるものなのでしょうか。いずれの場合であっても、なにか特別な状況で使われる言葉のような気がします。

『尊厳とは、わたしたち人間に皆等しく備わっているものであり、それは決して他者からは侵されてはならない私的な領域』のような気がします。それはなんとなく理解できる。けれども、そのように広く、分け隔てなくわたしたちに備わるのはなぜなのでしょうか。また、どういった理由で強力に守られなければならないのでしょう。さらにこんな疑問も生まれます。「尊厳」というものは、はたして人間以外の「生きもの」には認められないものなのでしょうか。そして「もの」には「尊厳」は認められないものなのでしょうか。

当日はどこか捉えにくいこの「尊厳」という概念をなるべく具体的に、そしてなるべく平易な言葉で検討したいと考えています。みなさんからの知恵と経験によってつくられているカフェです。ぜひともご参加ください!

こんにちは。世話人の堂囿です。
次回のテーマをお知らせします。

テーマ:人の心の内をどこまで推し量れるのか
ファシリテーター:青木孝介
日時:2019年10月5日(土)
15:00~18:00(14:30~受付&テーブルトーク)
場所:スノドカフェ七間町(静岡県静岡市葵区七間町7-8)
参加費:一般1,000円,学生500円(フリードリンク・お菓子付)
申込み:不要

私たちは、他者と生活を共にしています。共に生活を営む以上、他者に配慮することが求められます。特に社会的な生活の場、例えば学校や仕事の場では、他者の心情を正しく推量し、適切に行為することが推奨されます。社会人ならば、職種にもよるでしょうが、他者に「気を使う」ことは必須の技能であるように思われます。学校でも、他者への配慮は、まさしく「生き残る」ためにはなくてはならないスキルとなっているのではないでしょうか。

他者への配慮には、その心の内を推し量ることが必要です。ですが、ご承知のとおり他者の心は目に見えません。そのような目には見えないものを、私たちは推し量って行為し、そしてある程度までは成功しているようなのです。

ここで、「ようなのです」、という言葉を使うのは、他者の心が見えない以上、私たちが正しく相手の心の内を推量できているかどうか、不明だからです。たいていの場合、相手が怒り出したり、不機嫌にならないことを以って私たちは相手の心情を害していないことを判断したりしています。その反対もまた然りでしょう。

いずれにせよ、目に見えない他者の心について、その都度判断を下しながら私たちは生活しています。ですが、他者のこころはいつまでも謎のまま残されています。このことについて、以下の問から、他者の心について考えてみたいと思います。

① あなたは他者の心にどのように配慮していますか。
② あなたが他者の心に正しく配慮できたと思ったのはどのようなときですか?また、それはなぜですか?
③ 他者の心の内をどこまで推し量れるのか。

皆様のご参加、お待ちしています!