日本史分野の近世史(江戸時代)では、7月中旬に茅野市にある神長官守矢史料館へ教員と学生とがお伺いして、江戸時代の古文書の調査・撮影を行いました。
守矢家は、古くから諏訪湖の南に鎮座する諏訪大社上社(かみしゃ)の神官を務めていた家です。同社のトップに位置づけられていたのは大祝(おおほうり)を世襲した諏方(すわ)家ですが、大祝は生き神様という扱いであったため、神長官(じんちょうかん)を世襲した守矢家が実際に社務を取り仕切っていました。
諏訪大社上社はさらに前宮と本宮からなり、近代以前には神長官をはじめ、祢宜太夫(ねぎだゆう)・権祝(ごんのほうり)・擬祝(ぎのほうり)・副祝(そいのほうり)の5人の神職が中心となり、神事を斎行していました。明治初年の神仏分離・廃仏毀釈までは神宮寺も存在し、僧侶も多数所属していたようです。また、高島藩(諏訪家)の支配をうけつつも、徳川将軍から神領1,000石を与えられた宗教領主でもあり、藩との交渉や神領支配などの実態なども含め、江戸時代の諏訪大社のようすが守矢家文書からみえてくるのではないかと思われます。
諏訪大社といえば、勇壮な御柱祭や諏訪湖の御神渡りなどが有名ですが、前述の通り江戸時代の同社は複雑な社中構造(複雑であるほど面白い!)を有し、彼らの協働(時には対立も?)によりつつがなく日常の社務が執り行われていたことも見逃せません。また、明治初年の神領没収や神宮寺の廃寺などをいかに乗り越えてきたのか、そのあたりの苦闘の軌跡も追究できればと考えています。
最後になりましたが、調査・撮影をご許可いただいた茅野市教育委員会のご担当者様と、協力してくれた学生に御礼を申し上げます。